連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第28話 阿部牧郎さんと直木賞

連載[担当編集者だけが知っている名作・作家秘話] 第28話 阿部牧郎さんと直木賞

名作誕生の裏には秘話あり。担当編集と作家の間には、作品誕生まで実に様々なドラマがあります。一般読者には知られていない、作家の素顔が垣間見える裏話などをお伝えする連載の第28回目です。今回は、阿部牧郎が直木賞を受賞するまでのエピソード。何度もノミネートされては落選が続いた阿部が、念願叶うまでにはどのような紆余曲折があったのでしょうか。担当編集者ならではの視点で当時の出来事を振り返ります。


 私が(講談社に)入社した頃だから、もう半世紀も前のことになるが、当時の直木賞候補は、短い作品だった。せいぜい長くても、原稿用紙で百枚くらいのものだった。3月と9月が近くなると、直木賞を狙う作家とその担当者は、とっておきの素材で、八十枚から百枚くらいの力作を書いたものだ。目次にも「今月の力作!」とか何とか打って、注意を引こうとした。

 阿部牧郎さんの担当になったのは、そんな時期だった。誰もが、阿部さんは、直木賞に一番近い作家だと思っていた。と言うのも、阿部さんは直木賞に記録的な落選を続けていたからだ。それは以下の通りだ。

 1968(昭和43)年の上半期に「蛸と精鋭」(別冊文藝春秋)で初めて候補になった。佐木隆三さんや、筒井康隆さんも候補だったが、この回は受賞作なしだった。

 1969(昭和45)年の上半期に「袋叩きの土地」(別冊文藝春秋)が、2回目の候補になって、落ちた。渡辺淳一さんが落選仲間で、受賞は佐藤愛子さんの「戦いすんで日が暮れて」(講談社)だった。

 1969(昭和44)年の下半期、3回目の候補作「われは湖の子」(オール讀物)で落ちた。受賞作はなかった。

 1970(昭和45)年下半期、4回目の「アンモニア戦記」(オール讀物)で落ちた。受賞は豊田穣さんの「長良川」(作家社)だった。

 1971(昭和46)年上半期、5回目の『われらの異郷』(三一書房)で落ちた。受賞作なしだった。のちの直木賞作家の藤沢周平さんと藤本義一さんも落ちている。

 1972(昭和47)年上半期、6回目の「残酷な蜜月」(別冊文藝春秋)で落ちた。受賞作は綱淵謙錠さんの『斬』(河出書房新社)と井上ひさしさんの「手鎖心中」(別冊文藝春秋)だった。筒井康隆さんも落ちた仲間だ。

 1974年(昭和49年)上半期、7回目の「失われた球譜」(別冊文藝春秋)で落ちた。受賞作は藤本義一さんの「鬼の詩」(別冊小説現代)だった。

 つまり、阿部さんは直木賞に、7回も候補になり、すべて落ちた。これは、同じ大阪の作家である長谷川幸延氏と同じ記録であり、長谷川氏はそれ以降、候補になっていない。

 池波正太郎さんも直木賞の候補になった5回すべて落ちて、6回目に受賞している。これらのことを勘案すると、阿部さんが7回候補になって落選すると候補になる資格を失う、誤解したのも無理からぬことだった。

 私が担当になってすぐの頃、阿部さんが上京してきて、新宿駅東口のそばの、カレー・ライスで有名な中村屋の裏に、いまはなくなっていると思うが、安い旅館があって、そこに宿泊していた。畳敷きの部屋に入ると、阿部さんがどこかの編集者とおぼしき人と一緒にいた。そして私の顔を見ると、新刊本を取り上げて、

「こうやってサインしてあげるのが夢やったんや」

 と関西なまりで、言いながら、太いサインペンで、署名をしてくれた。

『袋叩きの土地』だ。(昭和四十四年十月五日 第一刷)と奥付けにはあった。文藝春秋から出版されている。

 四篇の中篇が収録されていた。そのうち3作が直木賞に落ちた作品だ。

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 そうこうしているうちに私は純文学誌の「群像」に異動してしまい、阿部さんとはしばらく縁が途絶えてしまった。

 噂では、その優れた筆力でもって、エロティックな小説を書きだして、その方面で流行作家になっていると聞いた。

 私は、少し残念な気がしたが、それはそれで、阿部さんは作家としての道を拓いたわけだとも思った。

 そうして、私の方にも紆余曲折があって、1985(昭和59)年に「小説現代」の編集長になった。

 その挨拶に野坂昭如さんのところに行ったら、帰り際に、玄関で靴を履いている私に向かって、

「阿部のことだけど……」

 と口ごもった末に、

「オヤジのことを書かせるといいですよ」

 と、少し(ども)るような口調で言った。

 編集長として、エロティックな小説で流行作家になっている阿部さんにどう接していいのか、方針が決まっていなかったので、ありがたいアドバイスだった。

 野坂さんは1953(昭和28)年に、阿部さんが大学受験のために上京した時に出会ってからの付き合いだから、阿部さんの父親のこともよく知っていた。

 阿部さんの父親は、秋田の鹿角市に生まれた。生家は大地主だった。新潟高校を出て、東京帝大に進み、卒業後は京都府庁へ勤務するようになる。戦後は志願して、弘前の国立病院の事務局長になった。戦後のひどいインフレの下、すっかり財産をなくして、町役場の助役になる。一流の大学を卒業して、坊ちゃん育ちのインテリである父親には田舎暮らしにやりきれないことも多かったのであろう。この頃から酒を飲み出し、酔って乱れるようになる。結局は食道癌になり、手術をするも、すでに遅かったということは、阿部さんがのちに書いた『大阪迷走記』(新潮社刊)の一章「父の死」に詳しい。

 野坂さんの言葉を胸に、私は早速、大阪で阿部さんに会った。

「まだ直木賞が欲しいんですか」

 私は昔馴染みのよしみで、ズバリと訊いてみた。

「そりゃあ、欲しいがな」

 阿部さんも素直に答えてくれた。

「それじゃあ、狙ってみましょうよ」

 私はそそのかすように言った。

 それは、いま売れに売れているらしいが、阿部さんの書くエロティックな小説は、「小説現代」には要りませんと宣言したのと同じことだ。

 そして、野坂さんが言った通りのことを言ってみた。

 阿部さんは、気を悪くせずに、やってみたいと言ってくれた。

 1985(昭和60)年に、編集長になってすぐ、私が企画して、常盤新平さんに、百枚ずつ4つの短篇の連作『遠いアメリカ』を書いてもらった。岩手の青年が、アメリカ文化に憧れて、1955年(昭和30)年頃には東京の翻訳出版社に勤めたが、しかしアメリカはなお遠くにあるというコンセプトで、その小説集は、幸運にも直木賞を受賞した。

 さらに、そのあとで、中島らもさんには、アルコール依存症で入院した時の見聞を、やはり百枚ずつ4つの短篇の連作『今夜、すべてのバーで』を書いてもらい、これは惜しくも受賞を逸したが、候補になった。

 私は、この方式に自信を持ち、阿部さんの小説もこれでいこうと思っていた。

 阿部さんの『大阪迷走記』によると、

「賞狙いの相談はともかく、ベストをつくそうという約束であった」

 となる。

 やがて、阿部さんは、お父さんのことや亡くなった同級生のことなど、それぞれが迎える人生の終楽章を描いた連作が完成させた。とてもいい作品だった。

 そして、『大阪迷走記』によると、

「午前十時に私は映子(阿部さんの奥さん)に起こされた。この私は阿部さんのことである。

 『こんなのがきたよ。ねえ、大変──』

 日本文学振興会からだった。あなたの作品「それぞれの終楽章」が第九十八回直木賞の候補作品に選ばれましたとある」

 という事態になった。

 予想はしていなかったわけではないが、8回目の候補になったわけである。

 私は、受賞の可能性はあるが、大きな壁がふたつあると思った。

 ひとつは阿部さんがエロティックな小説で、すでに流行作家になっていることである。

 もうひとつは、もっと厄介なことだった。

 阿部さんが、これまで何度か候補になりながら落選したのは、選考委員のひとりである黒岩重吾さんが受賞に強く反対しているからだという、まことしやかな噂が流れたのだ。黒岩さんは大阪在住の作家で、阿部さんが小説を書き始めた頃から、何くれとなく可愛がってくれた恩人みたいな人だったから、阿部さんの衝撃は大きかった。そして、あってはならない怒りにまかせて、黒岩さんの、大阪での悪口の、あることないことをエッセイに書いて発表してしまったのだ。

 それを読んだら、黒岩さんが、それこそ、今度の選考委員会で強く反対を唱えてもしかたないかもしれない。そうしたら受賞なんてシャボン玉のように弾け飛んでしまうのだ。

 そんなことを思いながら、選考会の当日、阿部さんのお宅に出かけた。

『大阪迷走記』によると、

「選考は午後六時からである。五時ごろから各社の編集者が一人、二人と家にやってきた。新聞社やテレビ局の記者、草野球チームのメンバーなどがあつまって」きた。

 阿部さんは、Xチームという草野球のチームのメンバーでもあった。

 私たち講談社の文芸局と文庫局で、ブンブンという草野球のチームを作っていて、Xチームと対戦したことがある。関西から遠征してくるXチームのことを思い、後の話になるが、東京ドームを借りたのであるが、確か球場の借り賃は30万円だったと記憶している。ウグイス嬢にアナウンスを頼むと幾ら、ホームランが出るたびに噴水を噴き上げると幾らなど、色々なオプションがついていたが、それは別の話としよう。

 私は阿部さんに鰻弁当を人数分頼んでくれと言ってあった。私のジンクスで、鰻屋で選考結果を待っていると(げん)がよく、長部日出雄さん、常盤新平さんなど鰻屋で選考結果を待っていて受賞したし、出久根達郎さんの時の場所は鰻屋ではなかったが、そこに着く前、無理矢理、鰻を頬ばってもらって、受賞したことがあるのだ。

 弁当は30人分だったそうで、阿部さんには散財をかけた。それでも全員に回らなかったというから、大勢の人が詰めかけていたのが分かる。

 阿部さんは、いつ弁当を食べてもらうかと訊いてきた。

 私は、

「いま食べましょう。落ちてからでは、食べにくくなります」

 と、冗談のように言った。重苦しくなりがちな、その場を軽い感じにしたかったのだ。

 だいたい8時頃には結果が出るようだ。受賞の知らせは結果が出しだい、日本文学振興会から電話で知らせてきて、落選の場合は、少し遅れていつもの担当者から電話があるようだ。

 その時間が近づいてきたとき、電話が鳴った。

 詰めかけていたライトが一斉に点灯され、テレビ用のカメラやスチール用にカメラが阿部さんに向けられた。阿部さんが受話器を取ると、「結果はどうですか?」という野球チームの一員からの、のんびりした電話だった。

 緊張の空気の中、いかにも場違いの電話だった。青ざめた阿部さんは、受話器に向かって、「お前とは一生絶交だ」と叫んだ。

 そりゃあ、私も阿部さんと同じ気持ちだった。

 それからすぐにまた電話が鳴った。阿部さんに、またも眩しいほどのライトが浴びせられ、いくつものカメラが向けられた。今度こそ、受賞の電話だった。阿部さんは、受話器を持ちながら、指で丸をつくって受賞を伝えてくれた。そう言えば、あのとき、絶交を言い渡された野球チームの一員は、授賞式には招かれていたそうだ。

 

 選考委員の黒岩重吾さんは、阿部さんの作品を第一に推してくれたと聞いた。しばらくして、黒岩さんに会ったとき、

「あんなことがあったのに寛大なんですね」

 と言ったら、黒岩さんは、

「そりゃあ、いい作品は推すがな」

 と、あっさり答えた。

 私は、真摯に小説に向かう態度を、黒岩さんが示してくれたと思った。そして、黒岩さんの文学の魂に触れた気がして、言う言葉もなく、じっと固まったままでいた。

【著者プロフィール】

宮田 昭宏
Akihiro Miyata

国際基督教大学卒業後、1968年、講談社入社。小説誌「小説現代」編集部に配属。池波正太郎、山口瞳、野坂昭如、長部日出雄、田中小実昌などを担当。1974年に純文学誌「群像」編集部に異動。林京子『ギアマン・ビードロ』、吉行淳之介『夕暮れまで』、開高健『黄昏の力』、三浦哲郎『おろおろ草子』などに関わる。1979年「群像」新人賞に応募した村上春樹に出会う。1983年、文庫PR誌「イン☆ポケット」を創刊。安部譲二の処女小説「塀の中のプレイボール」を掲載。1985年、編集長として「小説現代」に戻り、常盤新平『遠いアメリカ』、阿部牧郎『それぞれの終楽章』の直木賞受賞に関わる。2016年から配信開始した『山口瞳 電子全集』では監修者を務める。

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