椹野道流の英国つれづれ 第17回
こちらのパブでもランチを提供しているらしく、カウンターの奥にあるキッチンからはとてもいい匂いがしていましたし、時々山盛りの大きなお皿を両手に持ったスタッフがキッチンから出て来て、客席に料理を運ぶのが何だか羨ましくて、いちいち目で追ってしまっていたのです。
お皿の上にあるのは、分厚くスライスされたお肉だったり、小さいけれど深い器で焼かれたパイだったり、オーブンで焼いて二つ割りにした特大サイズのジャガイモだったり、山盛りのサラダだったりと、とにかく無闇に美味しそう。
ブライトンの、学校の近くのパブより、全体的に豪華な感じがします。
やっぱり、田舎のパブは地元密着なので、料理のクオリティも少し高めなのかもしれません。
ああ、お腹が空いてきました。
ジーンがおうちで作ってくれている、サンデーディナーへの期待も膨らみます。
あと、ジャックが他の人たちと喋っている、そのちょっとロンドン訛りに似た語り口や、アメリカ英語とまったく違う抑揚、それに、1割、2割しか聞き取れない会話に夢中で耳を傾けていたので、時間はあっという間に過ぎてしまいました。
「楽しいです、パブ」
私のシンプルな発言に、ジャックはもじゃもじゃした眉をちょっと持ち上げ、「そりゃよかった。けど、ひとりで行くんじゃないぞ。酒場には、悪い奴もたくさん来るからな」と言いました。
「おや、うちのパブは例外って言ってほしいですね。たちの悪い奴には、店の敷居をまたがせねえ。一方で、常連さんが連れて来たお客は、俺が気に入れば、即、常連の仲間入りだ。お嬢さん、いつだってひとりでいらっしゃい。俺がいりゃ、心配要りませんよ」
ジョージがいかにも心外そうな顔つきでそう主張してくれて、私はくすぐったい気持ちでお礼を言いました。
なるほど、安心するなあ、この感じ。
アメリカに短期留学したときに感じたつらさのひとつは、相手の感情がわからないことでした。
大袈裟な笑顔と朗らかな声、握手やハグで歓迎してくれたと思いきや、それはただの習慣で、特に私に好意があるわけではない……と気づいたときの、何とも言えない不安感と薄ら寒さが、滞在中、ずっとついて回りました。
誰かと出会うたび、握手を交わすたび、この人の笑顔はきっと作り物なんだなと構えてしまって、上手に人間関係を作ることができなかったのです。
イギリスでもそうなるのではないかと怯える気持ちがあったのですが、基本的に、イギリスには感情を必要以上に大きく見せる人は、あまりいないように感じました。
勿論、初対面の挨拶でもたいての人は笑顔くらいは見せますが、その加減が日本人にかなり近い、わかりやすい「礼儀レベル」で、無用の期待をせずに済むのです。
学校のスタッフも、滞在中のB&Bのスタッフも、ずっと親切ではあるけれど、最初はビジネスライクに、そこから徐々に毎日の会話を経て、少しずつ距離を縮めてくれる感じが、私には心地よく感じられます。
最初こそ、出会う人にみな邪険にされている気がして不安でいっぱいでしたが、街と人々に同じスピードで慣れていける雰囲気があって、そこは好きなポイントでした。
「さて、そんじゃそろそろ戻るか」
ジャックはそう言って、1パイントのビールが入る大きなグラスをぐっと傾け、最後の一口を飲み干して立ち上がりました。
ああはい、と返事をして私も席を立ったところで、はたと気づきます。
え、どうやって帰るの?
ジャック、お酒飲んじゃってるじゃないですか!
兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。