椹野道流の英国つれづれ 第21回

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私は、でへへ、と照れ笑いして、ジャックが押しやってきたミントソースの容器を受け取ります。

ミントソースとは……? どんなものだろう? とお思いかもしれませんね。

これはズバリ、細かく刻んだミントの葉と塩と砂糖、それにモルトヴィネガーと熱湯を混ぜて作る、甘酸っぱくてスースーする不思議なソースです。

私も最初は「お肉に歯磨きをつけたような……」と、独特の風味にどうにも馴染めずにいましたが、恐ろしいもので、リーブ家で幾度もご馳走になるうち、ミントソースがないと物足りなく感じるようになってしまいました。

慣れとは凄いものです。

それはともかく。

この時はミントソース初体験だったので、おっかなびっくり、お皿の隅にほんの少しだけソースを落として、私は口を開きました。

「だって、お金がなくなってからじゃ遅いから。アレックスが一緒に来られない日に、ひとりで不動産屋さんに行って、決めてきちゃった。店のおじさんが、『本当に安い部屋なら何でもいいのかい? だったら、なくもないよ。学校には近いよ』って紹介してくれたの」

「学校に近いのはいいわね。だったら、シーサイドのそこそこ環境のいいところでしょう? でも……肝腎のお部屋は、どんな感じなの?」

「そうだ、それが問題だ。まさか、フラットシェアじゃないだろうな?」

ジャックは、ギロリとした大きな目で、私を見ました。さすが、元パイロットの眼光です。ウソは見抜くぞと言わんばかり。

私は首を横に振りました。

「ううん、私だけ」

ジーンは小首を傾げます。

「フラット一軒をひとりで? それともアパートメントなの?」

「どっちでもない」

私の答えに、ジーンとジャックは顔を見合わせました。

私は、不動産屋から教わった情報を、正直にふたりに伝えました。

「大昔、消防署だった建物なの。凄く古いの。200年以上前からあるって言ってた」

ああ、と手を打ったのはジャックでした。

「なるほど、じゃあ、1階部分は、今で言う消防車代わりの馬車と、それを引く馬を置いていたから空っぽだろう。2階を借りたのか」

私はこっくり頷きます。

「今は、1階が車の板金工場なの。2階がずっと空いてるからって、とっても安く貸してくれた」

「とっても安くって、お家賃はどのくらい?」

私が待望のお肉をもぐもぐ頬張りながら、日本円で8000円くらいだと答えたら、ふたりとも大きな驚きの声を上げました。

「ウソだろ。1日じゃなくて、1ヶ月の家賃が?」

「ちょっとチャズ、どういうお部屋なの? 信じられないわ」

もはやふたりとも、食事そっちのけです。

私が、引っ越したばかりのその部屋の説明を始めると、ふたりの顔はどんどん曇り、険しくなり……。

そして、私が口を閉じるなり、ジーンはピンと背筋を伸ばし、厳かに宣言しました。

「今日は、ジャックがあなたをお家まで送るわ。私もついていく。あなたの住まいが本当にあなたが住んで大丈夫かどうか、私たちが確かめます!」

うおおー、そんなことまで!? ああいや、あの部屋、見せても大丈夫かなあ。

だけど、ジーンもジャックもやる気まんまんだし、こうなると断るわけにもいかないし……。

私は、お皿のラム肉をフォークで無闇につつきながら、「いいよぉ……」と弱々しい承諾の返事をしたのでした。


「椹野道流の英国つれづれ」アーカイヴ

椹野道流(ふしの・みちる)

兵庫県出身。1996年「人買奇談」で講談社の第3回ホワイトハート大賞エンタテインメント小説部門の佳作を受賞。1997年に発売された同作に始まる「奇談」シリーズ(講談社X文庫ホワイトハート)が人気となりロングシリーズに。一方で、法医学教室の監察医としての経験も生かし、「鬼籍通覧」シリーズ(講談社文庫)など監察医もののミステリも発表。ほかに「最後の晩ごはん」「ローウェル骨董店の事件簿」(角川文庫)、「時をかける眼鏡」(集英社オレンジ文庫)各シリーズなど著作多数。

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