乗代雄介〈風はどこから〉第10回

乗代雄介〈風はどこから〉第10回

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「山の向こうにサッカーを観に行こう」


 9月30日、エディオンスタジアム広島でサンフレッチェ広島対名古屋グランパスの試合を観戦予定の私は、朝、JR山陽本線新井口駅に降り立った。今回は、前回の岡山よりも時系列では前になるので、思い出すような形で書くことになる。

 小学校の時からJリーグを見ていた者としては広島ビッグアーチという愛称にも親しみのあるスタジアムだから、本拠地としての試合を最後に見ておこうと思ってやって来た。「最後に」というのは、2024シーズンからサンフレッチェ広島市のホームスタジアムがエディオンピースウイング広島に移転するからだ。広島市中央公園内にあって街の中心部からも近いサッカー専用スタジアムで、この前日に広島城から見たけれど、傾斜のある席にかぶせた屋根の曲線が美しかった。

 現在のエディオンスタジアム広島は陸上競技場で、トラックがあるため臨場感に欠けたり、広島中心部からのアクセスがよくなかったりで、ずっと新スタジアムの建設が求められてきた。興味のある人は調べてもらいたいけれど、様々な問題が絡み合ってなかなか話が進まなかったので、チームやサポーターにとっては昔からの悲願なのである。

 問題の広島駅からのアクセスとしては、試合の日はスタジアム前まで出るバスに乗るか、JRと私鉄を乗り継ぎ大回りするように広域公園前駅まで行くかだ。帰りは電車で帰ってみたが、混雑もあって1時間ほどかかり、新スタジアムになったら本当に便利で観客も増えるだろうなと思った。

 念のため言っておくと、新井口駅から徒歩で行くというのはサッカー観戦が目的の場合、あまり候補に入らない道だ。駅を出ると、南北にのびる道路の北の先に鈴ヶ峰が見える。麓の小高い丘には緑地や市営アパート、中学校が山に沿うように続く。やがて登山口に着いたが、西に足をのばし、井口台の町を少し歩くことにした。

道なき町を見下ろして。
道なき町を見下ろして。

 このあたりは、鈴ヶ峰の南麓を切り拓いて造成された宅地らしい。傾斜のある町は景色が狭まっては広がり、目が呼吸するようで私は好きだ。西城秀樹の「走れ正直者」がイヤホンから流れる中、町の中心となる公園や大きなスーパーのあたりを歩いた。私が小学生だった頃の「ちびまる子ちゃん」のエンディング曲で、中学生になって8センチCDを買ったのが懐かしい。B面が「HIDEKI Greatest Hits Mega-Mix」というタイトルのままの10分ぐらいあるヒット曲のミックス曲で、最初は何が何だかわからなかったがいつしか気に入り、通学の時にMDプレーヤーでめちゃくちゃ聴いた。こちらは今の iPod には入っていないから久々に聴きたくなり、井口台公園のベンチに座って色々調べたら、サブスクも配信ダウンロードもなく、CDでも、その8センチのB面か、B面ベストみたいなアルバムにしか入っていないらしい。どうしても欲しくなり、二十数年ぶりに「走れ正直者」をポチった。あと、調べているうちに知ったが、西城秀樹は広島市出身だという。

 さて、登山口に戻っていよいよ山へ。整ったハイキングロードで気持ちよく歩いていける。1時間もかからずに鈴ヶ峰の山頂に着き、眺めを楽しんでから縦走するルートに入った。

幟旗、どうやってもこちら向かず。
幟旗、どうやってもこちら向かず。

 下っていくと、山間の峠道の近くに地蔵堂があった。道行地蔵と書かれた幟旗が立ち、木の板に墨書きされた由来によると1682年の造像だという。興味深いので、その後に記されている「悲しい物語」の一部を、ちらほら交じる「々」以外の踊り字のみ改めて引用する。

 さてたまたまこの峠を通りかかった一人の武士が乳飲児を連れた美しい婦人に出合い一目惚れした武士は執拗に関係を迫りましたが婦人はこれを承服しませんでしたので逆上した武士は其の場で婦人を斬り捨てました、その後この峠付近に女性の亡霊が出没し通行人に「子供がおなかを空して泣いておるのでお乳を飲ましてやりたい どうかここに連れて来て欲しい」と哀願するのでした。
 不憫に思った村人が浄財を投じてお地蔵様を道々に建立したところ亡霊は出なくなた云われます

 脱字はともかく、語りが聞こえてくるようで、だから一文の中で主語が重なっているのも気にならない。古い踊り字を使っていることを考えると、この話を実際に伝え聞いた方の手によるものか、その聞き書きかもしれない。由来自体は本当に悲しいひどい話で、「一目惚れ」という言葉が用いられるのもどうかと思うが、世俗の語彙の一時の断面を書き留めているということは言えるだろう。

2023年のベスト説明札。
2023年のベスト説明札。

 手を合わせてから出発すれば、すぐに鬼ヶ城山である。白っぽい土道がウラジロというシダの仲間に挟まれて、ベニシダばかりだったここまでの道とどうしても比べてしまいながら気分よく歩く。と、その道が鋭い角度で折れるところで少し飛び出た木の根につまずいた。足元からコガタスズメバチが飛び立って驚きつつ見れば、土に露出した木の根が傷ついて樹液がしみ出している。おそらく傍らに立っているコナラの根で、ハチはこれを吸っていたらしい。根の付近の掘れ具合からすると、誰かというより何人もの人が私のように、これに蹴つまずいたのだろう。ちょうど目の前にベンチがあったので、今のヤツが戻ってくるかもしれないとノートを取り出す。まんまと戻ってきて、よく見るとあちこちにある傷ついた根の一つにかぶりついたのを見ながら、風景の文章スケッチを始めた。

 こういう時のハチに危険はあまりないけれど、それでも刺激すれば何があるかわからないから、人が来たら念のため声をかける。上下ちがう色とメーカーのジャージを着た77歳の方とは「何しよんな」と訊かれて会話になったが、週に一度、この近所から大茶臼山までを往復しているらしい。7年間、欠かしたことがないそうだ。70歳でそれを始めたきっかけは「暇じゃろ」とのこと。道行地蔵について何か知っているかもしれないと尋ねてみたら「知らん」とジャージのポケットに手を突っ込み、颯爽と坂を下っていかれた。

 その広島弁と生き様に興奮冷めやらぬまま鬼ヶ城山に登頂、また山間の峠に下る。麓の竹林を出て、流通を支える太い道路を渡って、次は見越山だ。これらの山々は広島南アルプスを構成していて、要は、広島市街とスタジアムがこのアルプスによってがっつり隔てられているためにアクセスがよくないのである。そういう地理を体験したいということもあって、このコースで観戦に行こうと思ったのだが、整備されているとはいえ、うっかり足でも痛めたら試合に間に合わなくなる。気をつけて歩かなければならない。

 とくに何事もなく見越山から柚木ゆのき城山に至る。そこからの下りは何度も送電鉄塔の下に出て、私は山の中の送電鉄塔を見上げるのが好きなのでうれしい。あと何か書くことはあったかなと、その時につけていたスマホのメモを見ると「チキチキバンバン」とある。そういえば、このあたりで色々な「チキチキバンバン」を聴いたのだ。映画『チキ・チキ・バン・バン』が好きで、主題歌のカバーを少しずつ集めたら結構な数になっている。岩谷時子の日本語詞は「ステキ おりこう 強い」のところがすばらしくて、だから、この歌詞の雰囲気をよく出している GO-BANG’S の「チキチキバンバン」を一番よく聴く。

『送電鉄塔ガイドブック』(オーム社)がオススメです。
送電鉄塔ガイドブック』(オーム社)がオススメです。

 昔の歌ばっかりなのもどうかと思い、関係ないけど一応ダウンロードしてあった QUEENDOM の「チキチキバンバン」も聴いてみた。アニメ『パリピ孔明』のオープニングテーマで話題になった1年ほど前にチェックしたものだが、そのダンスを TikTok で真似するのが流行っている(いた)らしいというのを、これを書くために色々検索して初めて知る。これに限らず、新しく出てきたタレントの名前がわからないとかそもそもはっきり顔が見分けられないとか、37歳、いよいよ本格的に流行についていけなくなっているのを感じている。流行の形や規模が変わったとはいえ、数年前まであった、それでも一応知っている状態にしておこうという気持ちが凪いで、もう仕方ないという気持ちになっている。なるなるとは思っていたが本当になるんだ、という感動がある。

 パリピメロディに歩調を合わせながら柚木城山を下ると、また山間の峠道に出た。峠という名があり、ここを横切ると、さっきのおじいさんが折り返し地点にしている大茶臼山に行けるようだ。自分もいつかは、知らないことを「知らん」とはっきり言いながら、同じ山道を毎週往復するような心持ちになっていくのだろうか。あんな感じになるならまあいいか、とも思う。

 人生の先達の幻影と別れて西へ峠道を下り、五月が丘に出た。朝に訪れた井口台もそうだが、街路が計画的に巡らされたこういう町の中央にはしばしば公園がある。行ったところで何ということもないのはわかっているのだが、マップを見るとどうしても行きたくなってしまう。西洋庭園のように東西南北対称な区画のど真ん中にある、やはり何と言うこともない五月が丘第三公園でしばし佇んで夕暮れ、スタジアムを目指す。山が近いので、サルもマムシも出るらしい。

 時計を見ると18時だ。19時のキックオフには間に合いそうだし、試合前の練習も見られそうだと思っていたら夕立がきて、五日市インターチェンジの出口をくぐるトンネルの中で雨宿りする。あっという間に濡れた路面を次々通る車の音が、トンネルの中ほどにいる私の耳元で消えるように響く。雨が止むまで15分ほど、ぼうっと地べたに座っていた。

けっこうギリギリに着いた。
けっこうギリギリに着いた。

 すっかり日も暮れ、スタジアムのある広島広域公園に近づくと、人が群れになって動いている。まぎれて歩く少し上りの通りの先には、〈エディオンスタジアム広島〉という紫色のネオンが光る。なんとなく期待に満ちた人混みの中には、20年以上ここへ通ってきた人もいるだろう。新しいスタジアムにもきっと通うはずだ。応援のため、苦楽を味わうため、もしかしたら暇だからかもしれない。

 こういう一日を過ごすと、人はステキ、おりこう、強いと思う。同時に穏やかな気持ちで、そこまでのものだとも思う。観客動員17728人だった試合は、サンフレッチェ広島が3-1で勝利した。

写真/著者本人


乗代雄介(のりしろ・ゆうすけ)
1986年北海道生まれ。2015年「十七八より」で第58回群像新人文学賞を受賞しデビュー。18年『本物の読書家』で第40回野間文芸新人賞を受賞。21年『旅する練習』で第34回三島由紀夫賞を受賞。ほか著書に『最高の任務』『ミック・エイヴォリーのアンダーパンツ』『パパイヤ・ママイヤ』『それは誠』などがある。

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