源流の人 第35回 ◇ 金承福(出版社「クオン」代表、韓国書籍専門書店「チェッコリ」オーナー)
「本の街」東京・神保町の書店から韓国文学を日本の読者たちに発信中
朝鮮半島の現代史に翻弄されながら「K-BOOK」潮流生んだ立役者
原点は「しっかり、かっちり、ごっそり」!? ハングルのメッセンジャーが見つめる地平の先にあるものとは──
東京・神保町。
元禄期、旗本・神保長治が広大な屋敷を構えたことから名のついた街は、いま、「本の街」として世界的に知られている。百軒あまりの古書店のほか、新刊書店、印刷・製本会社、出版社、出版取次会社が軒を連ねる。
その大通りに面したビルの三階に、韓国書籍専門書店「チェッコリ」はある。
韓国の小説や詩、エッセイなどの原書と翻訳本や、朝鮮半島に関する日本語の本が並ぶ。けっして広いスペースではないが、韓国や、朝鮮半島に興味を抱く人たちで四六時中賑わう。
本の販売だけでなく、韓国本の朗読会や読書会、太鼓の演奏会、ポジャギ(韓国伝統のパッチワーク)のワークショップなど、多彩なイベントが年間約百回行われている。
「韓国に興味のある人は、『チェッコリ』のことをよく知っていて、北海道から沖縄まで、全国から神保町まで来てくれます」
柔和な表情でそう語るのは、金承福。この店のオーナーで、ここ神保町で韓国書籍の出版社「クオン」も営み、代表を務めている。
金は「新しい韓国の文学」シリーズの出版をはじめ、日本国内でいま起こっている韓国文学「K-BOOK」ブームを起こした立役者だ。英国の国際文学賞(ブッカー賞インターナショナル部門)に輝いた韓国人作家・ハン・ガンの『菜食主義者』(二〇一一年刊行)を皮切りに、現代韓国の小説・詩を日本語で送り出し続けている。
『菜食主義者』のストーリーは、ある日突然、肉を口にすることを拒否し、やせ細っていく女性ヨンヘをめぐり、彼女の夫、義兄、実姉の三人の目を通して語られていく。各々の欲望や死生観などを問う連作小説集だ。著者のハン・ガンは一九七〇年、全羅南道光州広域市生まれの女性作家で、繊細な筆致でありながら心を抉るような世界を描き出し、韓国内で人気を博している。『菜食主義者』が世界でも話題を呼び、日本では「朝・毎・読」三紙に書評が掲載された。金の営む「クオン」では、ハン・ガンの作品をこれまでに三冊、翻訳出版してきた。
韓国文学の存在感を高めたのは『やってる感』
寄せては返す波のように、「スキ、キライ」を永遠に繰り返す日韓の政治関係。そのいっぽう、文化・文学に対する興味・関心にいたっては、そんな波とはおよそ無関係に、無限に広がり続け、途絶えることはない。韓国文学ブームを起こした張本人にそう切り出すと、金は深く頷き、こんなエピソードを紹介してくれた。
「『チェッコリ』をオープンさせたのが二〇一五年七月。その三年前、当時の大統領だった李明博が、わざわざ独島(日本名・竹島)に行ったの。『ここは韓国の領域だ』と言って。だから『本屋を出す』って言った時、皆から反対されました。『敢えて今の時期にやる必要があるのか?』って。でもその時、思ったんです。『文学が好きで本を読む人にとっては、思いは変わらないはず』って」
金の決意が固かったのは、「チェッコリ」のオープン以前、日本語版『菜食主義者』を掲げて各書店でイベントを開いた時の感触が忘れられなかったからだ。読者と会い、意見を交わす機会を重ねたが、政治と文学とをごっちゃにする人は誰ひとりいなかった。韓国文学を愛する日本の読者からの支持は、どんな波が来ようとも変わることはない。金の判断の結果は、「チェッコリ」の現在の賑わいに繋がっている。
ところで、日本国内では年間、約七万冊の新刊が出版されるという。そのうち、翻訳本は全体の約六~七%で、その内訳を見てみると、約八割が英語から日本語に翻訳されたものだそうだ。したがって、英語以外の言語はごくわずか。……ん? 日本国内の書店を見回してみると、「韓国文学」の本が、フランスやドイツ、スペインのそれより目立つようになった。金にそう言うと、彼女は嬉しそうな表情を浮かべ、こう語ってくれた。
「現場レベルではそういう実感があるみたいですね。インパクトがある」
そのインパクトのことを、金は「やってる感」という言葉を使って評する。
「『やってる感』をどうやってつくり出すか。つねにそれを考えています。翻訳コンクールを開いたり、K-BOOK フェスティバルを開いたり、韓国文学の説明会を開いたり。『やってる感』、大事です。実際の刊行数以上に韓国文学の本が多く並んでいるように感じるのなら、『やってる感』が成功したのかもなって」
十年以上、そうした活動を続けてきた金。
「でも、それでも、まだまだ」と言う。
自社「クオン」での出版だけに留まらず、出版のエージェント業務も担う金。たとえば尹胎鎬の社会派漫画『未生』(講談社)は、韓国でドラマ化され、作品の影響で非正規労働者を守る法律ができたほどの話題作となった。キム・スヒョンのエッセイ『私は私のままで生きることにした』(ワニブックス)は、二〇一九年の刊行以降、日韓累計約百六十万部を売り上げている。
韓国だけではない。北朝鮮や、中国にある朝鮮族自治州の作品にも金は目を向ける。二〇二三年四月には、北朝鮮の文豪ペク・ナムリョンによる中編小説『友』(小学館)が翻訳出版されたばかりだ。
『友』は、芸術団の歌手の女性が離婚訴訟を提起し、当事者と家族たちが被る苦悩、そして訴訟を担当した判事が自らの結婚生活を顧みる過程を描いた作品だ。金は言う。
「この本に興味を持ってくれる編集者が現れたので、日本で出した方がいいよって、エージェントを引き受けました。韓国か北朝鮮かにかかわらず、ハングルで書かれている文学を私はもっと広げたい。ハングルで書かれた作品は、韓国だけじゃない。ハングルで書かれている文学を、日本語圏の読者に届けたいんです」
金と志を同じくするスタッフは現在、日本人、韓国人、そして在日コリアンたち十二人。コロナ禍でイベントがオンラインになってからも、歩みを止めず彼女たちの日々は続く。
恩師が「民主主義」を教えてくれた
金が生まれ育ったのは、韓国南西部、全羅南道にある海沿いの街、霊光。黄海のリアス式海岸が続く、風光明媚なところだ。韓国における多くの家庭と同様、教育熱心な家で育った。
金が生まれ育った「全羅南道」という地名を聞けば、思い起こさずにはいられない事件がある。
同道の中心部に位置し、かつては道庁所在地だった光州市で起きた「光州事件」だ。一九八〇年五月、戒厳令解除を求めて始まった学生・市民の反政府・民主化要求行動を、戒厳軍が武力で鎮圧し、多数の死傷者を出した。事件当時も、事件後も、軍事独裁政権下の韓国においては、その史実を口にすることさえ封じられてきた。金はそんななかで、きわめて貴重な体験をした。彼女は述解する。
「勿論、当時は私も知らなかった。けれども、中学に入って、一年の時の担任の先生から、ちょっとだけ聞いたんです」
担任教師は、事件当時、光州市にある全南大学の学生だった。軍と学生との衝突により、多数の死傷者を出した、光州きっての名門大学だ。担任教師は中間テストを控え、勉強しようと大学図書館に行くところを軍隊に止められた。そして彼女はその直後、韓国軍が自国民を大量虐殺する瞬間を目のあたりにした。金は語る。
「当時は話してはいけないから、詳しくは教えてくれませんでした。でも(その代わり)、彼女は、金芝河の詩『燃える喉の渇きから』とか、張俊河の本を紹介してくれました」
詩人・思想家、金芝河──。李承晩政権を倒した四月革命に参加し、学生運動を主導した。一九七〇年には長編譚詩『五賊』を発表し、反共法違反で投獄された。
ジャーナリスト・独立運動家、社会運動家、張俊河──。雑誌『思想界』を創刊し、朴正煕政権下で言論面での抵抗を繰り広げた。
金は語る。
「彼らの本を通じ、教師は民主主義っていう言葉を教えてくれました。民主主義、それがどういうものなのかを教える、そういう先生でした」
金と担任教師は、現在も交流を続けている。
現代詩の深淵に触れるため、ソウル芸術大学に進んだ金は、さっそく圧倒されることになった。
「韓国じゅうの詩がうまい人、小説がうまい人たちが入ってきたんです。カルチャーショックだった」
授業では、学生たちがA3判の紙に詩を五編書き、学生の人数分、コピーして読み合う。詩を批評し合う時間を眺めた講師は、先達の詩人の詩を一人ひとりにあてがって読ませ、リポートを提出するよう求めた。自作詩だけ自由気ままに書いてきた金は、韓国という国には、詩の天才が多くいることを、身をもって知った。
「なので、読む人になろう、と。書くのはやめました」
この時の恩師の一人が、金恵順。
八〇年代初頭から活躍する詩人で、二〇二一年、詩集『死の自叙伝』を、教え子、金の出版社「クオン」が翻訳出版している。『死の~』は、詩壇のノーベル文学賞といわれる「グリフィン詩賞」を、アジア人女性の詩集として初めて受賞した。金恵順は、二〇一四年に起き多数の死者・行方不明者を出す大惨事となった「セウォル号事件」が起きた翌年、地下鉄の駅で卒倒した際に着想を得て、四十九編の詩を紡いだ。この『死の自叙伝』は、光州事件やセウォル号事件など、権力からの暴力によってもたらされた「死」、家庭・社会で抑圧されもたらされた女性の「心の死」に、力強く寄り添った詩集だ。
他にも小説家・崔仁勲、詩人・呉圭原ら、韓国文学を代表する教授陣に金は薫陶を受けてきた。彼らの作品は、いずれも「クオン」で、教え子の金によって日本語に翻訳されている。金は言う。
「いま、こういう仕事が楽しくできるのは、先生たちのおかげだと思います」
海を越えて隣国へ
時は一九八八年。
ソウルの街は、オリンピックで盛り上がっていた。五輪をきっかけに、韓国では海外旅行が自由化されることになった。ソウル芸術大の大学生だった金たちの間では、バックパック旅行と、欧米・日本への海外留学がブームに。特段、大きな夢を持っていたわけではなかった金だが、ソウル芸術大でのカルチャーショックを通じ、もっと外に出たいと思ったという。金は語る。
「初めはイギリスに行こうと決めていました。いろいろ手続きを終え、最後にアボジ(父親)に話をすると、いきなり反対されたんです。『イギリスは遠いからダメ』って」
金は、とっさに頭を働かせ、こう告げた。
「日本なら近いでしょう。じゃあ、日本に留学します」
日韓の往来の激しいソウル首都圏ではない、地方都市に住む九〇年代初頭の当時の韓国人は、日本に対してどんな感情を持っていたのだろう。葛藤はなかったのか。そう問うと、金は首を強く横に振った。
「葛藤とか悩みは、普通の人たちにとって、特別な何かがない限り、ないんですよね。反日とか、そういう感情ってない。反日感情があるのはごく一部だと思う。家族は、『近いからよかったね』って(笑)。日本は支配した国とか、そういう感覚はもう、うちのアボジ、オモニ(母親)世代にも、私たちにも、あんまりない」
一九九一年、金は海を渡り、東京に降り立った。日本語学校で学んでから、日本大学藝術学部(日藝)に進んだ。
金は日藝で、国境を超える文学の力を思い知った。その時教壇に立っていたのは、英文学者・エッセイストの伊藤礼、小説家・中沢けい。
当時、金のような留学生が、日藝には数多く在籍していた。韓国や中国や台湾、コロンビア。いろんな言語を使う仲間がいた。そこで金らは、あるプロジェクトを立ち上げたという。
「『専門翻訳集団シカゴ』っていう、翻訳の仕事を立ち上げたんです」
シカゴというのは、「し」っかり、「か」っちり、「ご」っそり儲ける、の略なのだそうだ。日本語、韓国語、英語、中国語(繁体字・簡体字)、スペイン語、フランス語。金は自宅の住所と電話番号を載せたチラシを作り、放送局や新聞社にファクスを送り付けた。これまでも既に東京特派員として、韓国メディアの仕事を請け負うバイトを経験していた金は、取材して写真を撮って、フィルムと原稿をEMS(国際スピード郵便)で送るのは慣れっこだった。
「セリーヌ・ディオンが来日し、東京ドームでライブをやった時には、彼女の話すフランス語から、日本語や韓国語に、専門翻訳集団シカゴが取材にあたりました」
言葉の壁を越え、伝えたいものを伝える。金の現在の仕事の原点の一つは、じつは、「しっかり、かっちり、ごっそり」の「シカゴ」にあるのかもしれない。
次は文学が来ることを「既に知っていた」
光州事件で「民主主義」を知り、ソウル五輪で「世界」を知ったものの、英国では遠すぎるからと東京に渡り、学生生活を謳歌した。そして日藝を卒業するタイミングで、母国に翻弄される事象が起こった。
それは一九九七年十二月の「IMF危機」だった。
韓国が国家破綻の危機となり、国際通貨基金からの資金支援の覚書を締結したのだ。
たとえソウルに戻ったところで、職に就ける保証は何一つない。「パリパリ(早く早く)」の精神で突き進んだ韓国が大きく躓き、国じゅうが大混乱の様相を呈していた。そんななか、金は帰国せず、日本に残る道を決めた。
最初に勤めたのは、インターネットの広告代理店だった。当時の金大中大統領は「IT強国」を標榜し、韓国は日本より一歩先にインターネット社会に突入していた。金の会社は、母国から買ってきたソリューションを日本向けにカスタマイズし、韓国語、中国語、英語など、多くの言語に対応したホームページを制作した。金は、海外の取引先とコミュニケーションを取りながら、翻訳文書の管理に明け暮れた。
仕事はとても順調だったが、二〇〇〇年、会社の方針で韓国部門を閉じることに。金は、その仕事がなければ、在留資格を失ってしまうことになる。そのため、韓国部門を独立させ、金自身が社長となって引き継ぐことになった。
その二年後、日韓共催の「FIFAワールドカップ」、さらにその翌年にはドラマ「冬のソナタ」が大流行し、韓国に好感を抱く日本人が飛躍的に増えていった。韓国語の学習熱が高まるなか、金は、従来の業務の範囲を超え、主婦の友社に掛け合って、『韓流ドラマで始める愛の韓国語』という本を刊行した。韓国MBC(文化放送)と契約書を交わし、同局で放映されたドラマ七作品を題材に、基本の韓国語フレーズを紹介する語学教材をつくったのだ。ドラマの中から、名ゼリフを抜き出していく作業を担った金は、この本の「著者」になった。本は売れ、著者印税が入り、仲介や編集やDTPといった仕事ぶんのギャランティも手にした。出版が有意義なビジネスになることを、金が初めて悟った瞬間だった。
「本はお金になるっていうことを、その時わかった気がする。だけど、その後、自分たち『クオン』でつくった本がお金になった記憶はあまりないけど(笑)」
独立後、途切れることのなかった仕事が、突然、危機に立たされた。
今度は世界的な経済恐慌に巻き込まれた。二〇〇八年に起きた「リーマンショック」。金の会社の仕事は激減し、このままではやっていけないところまで追い詰められた。そこで金が決めたのは、韓国文学を出す出版社を新たにつくることだった。なぜか。彼女は、韓国での「日本観」を例に挙げ、こう語ってくれた。
「そもそも自分たちが日本に対する抵抗がなくなったのは、小学生の時からアニメを観たり、漫画を読んだり、高校では『ノンノ』のまわし読みをして、日本に対する憧れがあったからです。大学に入った頃、やっと日本の現代文学が翻訳されるようになって、村上春樹、よしもとばななが一気に読まれたんですよね。それを見てきたので、こうやって(日本で)韓国映画やドラマ、食べ物が好きな人にとって、次は文学だろうというのを、私は、既に知っていたんです。……『既に知っていた』って言ったら、おかしいですかね?」
韓国文学ムーヴメントを牽引する
韓国文学の本を、日本語圏の読者に届ける。
そう決めた金は、いろいろな出版社に声をかけて回った。だが、「韓国文学を読む人はまだいない」と断られ続け、企画は何一つ成功しなかった。日本の書籍ルールでは、いきなり本をつくっても流通が難しいこともわかったので、出版社を立ち上げてからも、しばらくはエージェントの仕事に専念することにした。
日本と韓国の出版社同士、作家と出版社を繋げる仕事を何年か続け、あらためて真剣に文学をやろうと考え、金が二〇一一年に立ち上げたのが「新しい韓国の文学」シリーズだ。このシリーズの一作目が、冒頭で紹介したハン・ガンの『菜食主義者』。装丁は、寄藤文平(デザイン)と鈴木千佳子(イラスト)に直談判して承諾を得て、以降、同シリーズの装丁は両氏が手がけることになる。
これまでのいわゆる「韓国本」は、どれもデザインがワンパターンな唐辛子のイラストがあしらわれ、緑色だったり赤色だったりして、「オシャレに見えなかった」と金は言う。
「だからそこは戦略的に考えました。ハン・ガンさんは、韓国ではすごく有名だけれども、日本では知られていない。装丁家の文平さんは有名だし、あのデザインの力が欲しい。一緒にお仕事することで、文平さんのファンも来てくれるはず。広告会社に勤めた頃、そういったことを学んだのです」
「クオン」がこのシリーズを出し始めて以降、他の出版社も韓国文学をシリーズで刊行する動きがでてきた。
そこからはエンジンがかかった。各出版社向けに、韓国の本を出版した編集者や翻訳家を招いてノウハウを聞く説明会を開いたり、読者向けに韓国文学ガイドブックをつくったり。韓国文学の普及に金は奔走した。川崎市にある書店が「韓国文学コーナー」をつくり、金が手がけた本の表紙そっくりのイラストを描いたポップを掲げてくれたのを目にした時、金は涙が止まらなくなった。
「こんなにも情熱のある人たちがいるから、『クオン』は本をつくっていける。それを実感しました」
いま、日本の多くの書店には、韓国文学の棚ができている。ほんの十年前、金が営業で回っていた時には考えられなかった光景だ。
「神保町にいてよかった」
韓流ブームが普遍となったいま、金のもとには日韓翻訳の仕事に関する問い合わせが増えてきた。金は、増え続ける韓国語学習者の語学力を確かめるため、翻訳家の育成コースをつくり、翻訳コンクールも開いている。短編小説二冊の翻訳を応募要項としており、ハイレベルのスキルが求められるが、応募者たちは本気で臨んでくる。
金がつくり、日藝の恩師・中沢けいに会長になってもらった「K-BOOK 振興会」が奔走し、神保町で韓国文学の本のフェスティバル(即売会)も開催してきた。それは「こんな本がおもしろかった」「こういう本を出してくれないか」という読者の声が、「チェッコリ」では直接聞ける一方、その話を他の出版社の編集者にすると、みんな口を揃え「そういう経験は一度もない」とこぼされたのだそうだ。
「じゃあ、そういう場をつくろうよ」
金は各出版社の編集者に声をかけ、フェスティバルを実行した。二〇一九年の回では、出店二十五店舗のうち、日本の出版社は「クオン」も含め二十一社。大手メディアが報じたこともあり、神保町じゅうの話題となった。
コリアンタウンの大久保でも赤坂でも、三河島でもなく、神保町という街を金が選んだのは、言うまでもなく「本の街」だからだ。金は言う。
「本なので、神保町で勝負する。街でばったり会って、『そういえばあの企画、その後どうなってる?』とか、『こういうのを考えているんだけど』とか、それができるんですよ。『そこちょっと歩きながら考えましょう』と。神保町ならではの出来事ですね。世界を見ても、なかなかない。本当に私は恵まれているし、運が良い。楽しい。『神保町にいてよかった』と思います」
それにきっと、懐の深い神保町なら、韓国だけでなく、世界じゅうの人たちと、たくさんの出版人とが仕事できる仕組みができるはず。金はそう信じている。
「いろんな国の、チェッコリみたいなケースがあっていい。読者がつけばそれはできるわけだから、一緒にやりませんか。『チェッコリがうまくいっているから、やってみよう』って。チェッコリを真似して誰かができたらいいと思います。もし、そういう人がいたら、私も丁寧に応援しますから、垣根を越えて、やろう? やりましょう!」
ひたすら光の射す道に向かって突き進んできた金だったが、じつは二〇二三年春までの約一年間だけは、生死をさまよう日々を送っていた。
二度にわたる大手術を敢行し九死に一生を得た。金は語る。
「一度死にました。だから怖いものはない。好きなことやろうって気持ちになったら、すごく明るく元気になりました。顔色良いでしょう。仕事ができるって、すごく楽しい。スタッフには迷惑かけたけど、いっぱい仕事しています。生き返ったので、好きなことをやりたい放題やろうと思います」
「チェッコリ」という店の名は、かつて朝鮮半島で流行した、書物を中心に文房具などの品々を描いた屏風絵のことを指す。ただし、「チェッコリ」という名は同時に韓国語で「チェク(本)」「コリ(街)」、つまり「本の街」と訳すこともできる。
本をつくる。本を届ける。言葉を繋ぐ。
物語を繋ぎ、文化を繋ぎ、ひとを繋いでいく。
金が神保町に開いた「窓」は、新しい風を今日も招き入れる。
金承福(キム・スンボク)
1969年、大韓民国全羅南道・霊光郡生まれ。ソウル芸術大学文芸創作科で現代詩を専攻。1991年、日本へ留学。日本大学藝術学部文芸科卒業。広告代理店勤務後、2000年、web 制作会社の社長に。本好きが高じて2007年、出版社「クオン」を設立。2015年、韓国語の書籍、韓国関連本を専門に扱う「チェッコリ」を、東京・神保町にオープン。ブックカフェ運営、出版業、書籍仲介業、翻訳家の育成など幅広く活躍中。
(インタビュー/加賀直樹 写真/松田麻樹)
〈「本の窓」2023年9・10月合併号掲載〉