映画『追憶』が話題!小説デビューを果たした青島武が語るここだけの話。

現在公開中の映画『追憶』が大ヒットで話題沸騰!今回、小説デビューをはたした脚本家・青島武が語る、小説「追憶」秘話。ここでしか聞けない話が盛りだくさんのインタビューです。

小説『追憶』あらすじ

2006年3月、王貞治監督率いる日本代表は、第1回ワールド・ベースボール・クラシックで世界の強豪と激戦を演じていた。同じ頃、北海道警察本部捜査一課の四方篤は、すすきののラーメン店で、野球仲間だった川端悟と29年ぶりの再会を果たす。川崎市在住の川端は、金策のために北海道にやって来たという。その翌々日、小樽市郊外の臨海部で川端悟の刺殺死体が発見された。彼は死の前日、娘との電話で「懐かしい人たちに会った」と言い残していた。四方は、容疑者として浮上した人物もまた、古い友人であることを知る――。

「小説には1番最初の原案を使いました」

――「追憶」、映画と小説、両方楽しませていただきました。比較するのもナンですが、舞台設定がかなり異なっている点が気にもなり、また興味深くもありました。しかも今回、映画の脚本を書いた青島さんご自身がノベライズも手がけるという珍しいケースと思いますが、最初からそのつもりだったのでしょうか?

青島 いえ、いえ。そんなつもりは全くなくて、最初に映画のプロデューサーサイドからノベライズの話をいただいた時は「そんな必要もないでしょう」と一度はお断りしました。「もう映画として完成しているから」と。
ところが、その後、編集者のかたを交えて話し合いを進めていくうちに、この形だったら書きたいという合意点にたどり着いて、小説版の「追憶」が成就したんです。55歳にして初めての小説デビューというわけです(笑)。

――そうですか。紆余曲折あったみたいですね(笑)。そもそも映画の原案・脚本は監督でもある瀧本智行さんとの共作になっていますが。

青島 そうですね。そもそもは瀧本くんと2人でキャッチボールしながら練っていった脚本です。実は、いまから10年くらい前、2006年だったと思いますが、あるオファーをいただいたんです。それは脚本のモチーフとして実際に起きた事件を使えないかというもので、関西で30代の女性が行き場のなくなった中学生や高校生の男の子を住まわせて犯罪をそそのかしていたというものでした。
でも、その設定のままでは悲惨な物語にしかならない。長年この仕事をやってきて身にしみついているんですが、僕は映画というのはお金を払ってわざわざ見に来て頂く以上はなにか希望がないとダメだと思っています。だから、少年達の設定は変えようと。
あと、ちょうどその時にワールドベースボールクラシックが開催されて日本中が湧いていて、そのときの興奮と王監督がらみの1977年のホームラン世界記録とをもうひとつからめたらどうかという話になりました。当時、小学生だった瀧本くんが77年の8月はものすごく熱狂していたというから、それは少年たちのバックボーンとして使えるね、と。

――その野球の部分は映画ではなかったですけれど。

青島 2006年に書き上げて10年間眠っていた脚本が、偶然、降旗康男監督の目に留まって映画化されることになって、監督やプロデューサーたちと話し合っていく上で時代背景や設定が変わりました。脚本というのは、打合せによって改稿されていくのは当たり前で、ごく一部の、ほんとうに大御所とされている脚本家をのぞいては、オリジナルな脚本がそのまま使われるということはほとんどないです。

――外からはなかなか分からない世界ですね。

青島 笑えるエピソードをひとつ披露すると、大御所の中には、さきほど説明したようにいっさい手直ししないどころか初稿しか書かない人もいるんです。僕がスタッフの助手時代の話ですが、ある大御所がちょっとした「てにをは」の間違ったまま原稿を渡したらその明らかな間違いも直さないで印刷しちゃったんですね。そこには、なにかの意味があるに違いない・・・って、いま流行の忖度して(笑)。

――ちょっと怖いくらいの傾斜というか、ヒエラルキー(笑)。

青島 ぼくは現在、日本シナリオ作家協会の会員ですが、シナリオライターの扱いは実際のところまちまちで、若いシナリオライターが打合せに基づいて書いた原稿が、原作小説家のひとことで吹っ飛んでしまうなんてこともあるわけです。まあ、この場合はプロデューサーが原作者にきちんと話を通していないことが大抵の原因ですけれど、こういう目に遭ったという話はたまに聞きますね。僕は自分がプロデューサーだったから、そうなる前に気配を察知して降りちゃいますけど(笑)

――そういう意味で小説家の世界はかなり違いますね。小説は殆どの場合、孤独な作業ですが、自らの意志は反映できるわけで。

青島 映画「追憶」は降旗監督の作品ですから、富山を舞台にしたいとおっしゃったので、そう直したんです。
小説化にあたって、編集の人に原案の設定に戻したいって断られるのを承知で話したら、「あ、それいいですね」って(笑)。それで、小説の方の舞台は北海道です。これは瀧本くんとぼくが当初話していたとき、作中に出てくるあの喫茶店が、北海道の荒涼とした原野にぽつんと一軒あって、長距離トラックの運転手たちが止まり木のようにやってくる店というイメージだったんです。2人とも北海道にはよくロケに行っていたので、その時に見聞きしたことが基になっています。

『青春の殺人者』を観て監督になることを決めました』

――ここでちょっと話を変えて、青島さんが映画の世界に入ったきっかけと、その後のプロセスを教えてください。

青島 それは割と真っすぐな話になるんですが、1本の映画との出会いということになります。高校1年生のときに中上健次さんの小説「蛇淫」を映画化した長谷川和彦監督の「青春の殺人者」という映画をたまたま見たんです。
その前年の映画賞を全て総なめしたという青春映画で、賞を取ったことで、当時僕が住んでいた静岡でも公開されたんですね。水谷豊さんが演じた千葉の市原で実際に起きた、父親と母親を殺した青年の物語ですけれども、うちのめされるように感動してしまって……。映画ってすごいなと思い、映画監督になろうと決めたんです。

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――それ1本で?

青島 それまでは田舎の野球少年だったんですね。中学3年間、ずっと白球追いかけていて、高校1年でこの映画と出会って、一気に映画にはまってしまったんです。特に日本映画が好きになって、東宝だと市川崑監督の横溝正史シリーズ、松竹だと野村芳太郎監督の松本清張もの、始まったばかりの角川映画なんかを見ていました。
あとは旧作に戻って大島渚監督などのATG(日本アート・シアター・ギルド)映画にはまったりしました。当時はビデオがない時代だったのですが、市立図書館に行くと「年鑑代表シナリオ集」というシナリオ集があったんです。シナリオ協会で毎年出している年鑑ですけれど、その前年の作品から10本を選んでシナリオが掲載されるんです。レンタルビデオがない時代に名画座のない地方に住んでいる者にとって、その映画を見たいと思ったらシナリオを読むしかないんです。大島渚監督の「少年」や「絞殺刑」とか、名作と言われるシナリオを貪るように読みました。

――すごいですね。見られない映画への渇望をシナリオで埋めてたなんて。

青島 田舎の高校生がちょっとばかり背伸びしていたんですよ。ATG映画の訳のわからない映画を好んでましたし、大島渚監督の「儀式」なんて、いま見ても意味がわからないですものね(笑)。

 
――それで、高校卒業して、すぐ出てこられたんですか。

青島 笑い話なんですけど、16歳のときにどうやったら映画監督になれるか考えたんです。それで、キネマ旬報社から、1970何年に「日本映画テレビ監督名鑑」という名鑑が出たんですが、そこにテレビドラマを含めて、映画を撮っている監督のプロフィールが全て出ていたのをチェックしました。
好きな映画監督を片っ端から全部調べたんです。そうしたら、みんな東大か早稲田出身だったんです。ということは、東大か早稲田へ行かないと映画監督になれないんじゃないかって。でも東大に行く頭はない。早稲田は、頑張れば、当時はまだ夜間の2部があったんで、そこから転部するという手もあるらしいという感じで(笑)。
そんなことを考えているうちに、今村昌平監督がつくった映画の学校があると知りました。今の日本映画大学の前身ですけれども、まだ私塾のようなころですね。だったら遠回りせずにこっちだと思って、そこに行ったんです。学校が再開発される前の横浜駅西口のスカイビルにあって、ボーリング場の跡を利用した教室でボーリングのレーンのスプリットマークが廊下に残っていたりしたんですよ。

――その後、学校の関係で仕事が入ってくるようになったんでしょうか。

青島 そうですね。僕らのころは、本当に映画の仕事に就くのは大変だったんです。今は人手不足なので、簡単に現場に入れますけれども、当時は本当に限られた人たちだけが映画をやっていたんです。
劇場用映画のことを今でも本編と言いますけれども、スタッフの中では本編をやっている人たちが一番上で、同じフィルム撮影でもテレビで放送するドラマのスタッフとは差がついていて、テレビ局で作っているビデオ収録のドラマに至っては全く別の世界の人がやっているものっていう時代、だったんですよ。

――まだ、そんな時代?

青島 今はそんなことはないですよ。僕は、友人の紹介で、たまたま成城の東宝撮影所内にあった東宝映像という映像制作会社の年間契約になったんです。
あのころ、月給12万円ぐらいで、1本担当すると幾らという手当がつきました。CMをやると1本2万円で、「火曜サスペンス劇場」とかにつくと期間が長いから7万円手当がつくみたいな。でも本編は東宝映画が製作するので、東宝映像では本編につくことはできなかったんです。

――区分けがはっきりあるんですね。

  青島 ありました。今でも覚えていますが、ある日、東宝撮影所の中を歩いていると本編の人たちがいるわけですよ。それがまさに降旗組だったんですけれども、第1ステージに入っていて、「何やっているの?」「高倉健さんらしいよ」「急遽企画が決まって突貫工事で撮影しているんだって」「きょう、夜中までやって、あしたの朝、北海道ロケだって」みたいな。今、思うと「居酒屋兆治」を撮影していたんです(笑)。
遠巻きに見ていると、降旗組のスタッフって光輝くように歩いているわけです。憧れの本編をやっている人たちは降旗組に限らずみなそうでした。

――でも、志としては、ゆくゆくは自分もああいう仕事をやるんだという、強い気持ちがあった?

青島 その志は変わらなかったです。その後、縁があって、映画の現場につくことができて。

――本編の?

青島 東宝映像の年間契約が切れてフリーになって、初めて本編についたのは、立花隆さん原作の「宇宙からの帰還」というドキュメンタリー映画でした。ドキュメンタリーなので撮影はほとんどなくて編集と音付けをする作業が中心の仕事で、仕上げ進行と言う雑用係でした(笑)。
それから、少しずつ映画の仕事が来るようになりました。製作部という撮影の段取りとか進行を担当するパートで、一番大きな仕事は撮影場所を探すことです。そのパートのトップは製作担当というスタッフなんですけど、製作担当を経てから大概はプロデューサーになるんです。

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――プロデューサーになられたのは何歳ですか。

青島 27歳のときです。世の中はバブル絶頂期で、お金がじゃぶじゃぶあったので、いろいろな業種の人たちが映画に参画していて、本当に人が足りなかったんです。ある日、ロケに出発するので新宿へ行きました。ロケは新宿か渋谷の駅前から大体出るんですけれども、朝、そこに行くと、集合場所が一緒なので、何十人って映画のスタッフがいるわけですね。そこで話をしながら、おまえ、次、あいているかなんて話になって、次の仕事が決まっていくんです。人足寄場みたいでしょう(笑)。その時、先輩のプロデューサーに紹介されたのが高橋伴明監督だったんです。
伴明監督がちょうど「鉄砲玉ぴゅ~」を撮り終わった頃で、それが東映ビデオで最大のヒットになってVシネマが隆盛になるんですけど、次の作品をプロデューサーでやらないかと声を掛けられました。
それが縁で伴明さんのプロダクションで監督の座付きプロデューサーみたいな形で4、5年ぐらい一緒に仕事をやりました。年間4本ぐらいVシネマをつくっていて、そのころに浅田次郎さんのデビューエッセイの「とられてたまるか」をVシネマにしたんです。
エッセイだったので、プロデューサーとしてストーリーにまとめるアイデアを提案していたら、東映ビデオのプロデューサーに、誰かライターに頼むんだったら面倒くさいから、おまえが自分で書けばいいじゃないかと言われたんです。伴明監督もそれでええやんとおっしゃって、じゃあ書きますって言ったんです。それは3カ月ぐらいかかって、書くのにかなり苦労しました(笑)。 それが僕の脚本家としての1本目です。

――最初に脚本を書くときというのは、それまでのいろいろな経験から身についているものなんですか。

青島 そうです。映画学校のときにシナリオの書き方を習いましたけれども、それが通用することはなく、スタッフとしてシナリオを毎日読むことの繰り返しで身についていったということになると思います。門前の小僧というやつですよね。

――それで、作品が当たったりすることによって、またやってくれよみたいになっていくんですか。
青島 「とられてたまるか」はヒットもしたので、プロデューサーを兼務しながらシリーズ3作まで書いたんですが、その後プロデューサーをしながらシナリオを書いたのは、連合赤軍事件を題材にした「光の雨」のように映画化が困難で企画にかけるお金がない作品のときだけだったんです。今でもプロデューサーを辞めたつもりはないんですけど(笑)、専業として書くようになったのは、「追憶」の原案となったシナリオを書いた以降からです。

「小説と脚本に優劣はないと思います」

――ちなみに「追憶」は何作目ぐらいの脚本になるんですか。

青島 何本目だろう。ちょっと数えていないからわからないですけれども。

――そんなに膨大な数ではないんですか。

青島 そんなにないです。オーダーがたくさん来て、何でもかんでも書いてという脚本家時代があったわけではないですから。

――しかし、映画の製作現場のあれこれを伺うと、結局、映画は監督のものというのは、みんなのコンセンサスとしてある? 「追憶」に関してももちろん。 

青島 前にも言いましたけど、映画「追憶」は降旗監督だからこその味わいがあります。文字で書かれたシナリオを映像に具現化する際に核となるのは監督のイメージですから、「映画は監督のもの」というのは言い過ぎですが、他の監督が撮っていたら違う映画になったはずです。

――小説とシナリオの1番大きな違いはどこでしたか?

青島 1番の違いは心理描写の表現です。小説は直接、登場人物の心情を書くことができますが、シナリオではト書きに心理描写を書いてはいけないので、セリフやアクションなどのカメラやマイクで撮影や録音ができることで表現します。
視点にも違いあります。シナリオは第三者が全体を見渡しているようにすべて神の視点で書きます。小説では例外もありますが、登場人物の視点で書くことが普通で、そこが異なります。ただ、誤解を恐れず言うと、小説と脚本とどっちが上かという優劣はないだろうと思います。それは、全く表現方法が違うものなので。だから、今回、書いてみて、何となくタッチがわかったという感じですかね。

――今後、青島さんが御自分でゼロから積み上げていくような小説を書いてみたいという気持ちは。

青島 そういう気持ちもあります。

――例えばどんなものを書いてみたいとかというのはありますか。

青島 ばりばりのサスペンスやミステリーが書けるわけじゃないので、それよりも、そこに至るヒューマンミステリーみたいな作品ですかね。魔が差した瞬間の何か、例えばそんなものが表現されている小説、というのかな。
僕のつたない読書経験から言うと、高村薫さんの「照柿」なんかは魔が差して狂っていくさまが延々と書かれて、すごい小説だと思っています。大阪の夏の暑い日に信号待ちをしている最中にアスファルトからすごい照り返しが来て、それは炉の中で燃えているアリのようだと思いながら、だんだん主人公が狂っていくという瞬間とか。ああいう文章には憧れます。ああいう文章の積み重ねで、人って何だろう、というのが描けたらいいなあと思います。

DSC_2135_1 <了>

プロフィール

青島 武(あおしま・たけし) 1961年静岡県生まれ。92年「とられてたまるか!」シリーズで脚本家デビュー。2012年「あなたへ」で第36回日本アカデミー賞優秀脚本賞受賞。『追憶』が、初の小説作品となる。

初出:P+D MAGAZINE(2017/05/22)

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