山下澄人『しんせかい』はここがスゴい!【芥川賞受賞】
山下澄人『しんせかい』の受賞が決定した第156回芥川賞。その受賞候補となった5作品をあらすじとともに徹底レビューします!
2017年1月19日に第156回芥川賞が発表され、山下澄人さんの『しんせかい』が見事に受賞を果たしました。
俳優でもある山下さんが倉本聰主催の「富良野塾」に参加した体験をベースに書かれたこの小説は、瑞々しい青春を描いた不思議とクセになる文章が魅力です。
さて、賞の発表から遡ること数週間前に、P+D MAGAZINE編集部は村田沙耶香さんの『コンビニ人間』が芥川賞を受賞した前回に引き続き、全候補作を徹底的にレビューする企画、「勝手に座談会」を開催しました。
作家であり批評家である坂上秋成さんをゲストにお招きした今回の座談会は、前回をはるかに上回る濃密さに。
果たして受賞予想は当たっていたのか? 惜しくも落選した他候補作の感想は? 最後までじっくりとお楽しみください。
目次
2. 宮内悠介『カブールの園』:歴史・技術・トラウマ……重厚なテーマの詰め合わせ
3. 古川真人『縫わんばならん』:「欠落したもの」をどう語るか
5. 山下澄人『しんせかい』:「曖昧」で「いいかげん」な現代性
加藤秀人『キャピタル』:「意識高い系」の文章に潜む罠
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【あらすじ】生き残り競争の熾烈なコンサルティングファームに7年勤めた主人公・須賀が、1年間のサバティカルを利用して移り住んだ地、バンコクで、かつての職場先輩である高野から仕事を頼まれる。その仕事とは、高野のファンドの内定を辞退したタイ人女性、アリサについての動向調査だった……。
犬:まずは『キャピタル』についてですが、村上春樹を彷彿とさせるような「クール」な文章で書かれた作品で、ちょっとした「キザっぽさ」を感じる人もいるかもしれない。そういう意味で読み手の反応が分かれる小説だと思いました。
こころ:私はちょっとこの文体が鼻につくと感じた側の人間でした。特に、ビジネス上流の世界を描きながらも、要所要所でもったいぶったような比喩が連発されるあたりに、内容と形式がやや解離しているような気がして。もう少しクリアに書けないかな……と思いました。
犬:僕は比喩の使い方は的確だったと思いますよ。「動くもの(=現在/生)」「動かないもの(=過去/死)」の対比が小説全体の意匠として散りばめられていて、かなり綿密に文章が練られた小説という印象を受けます。
坂上:書き方でいうと、ルビの使い方がユニークでしたね。「非効率」という言葉に対して「ナンセンス」、「全体」に対して「ユニバース」とルビを振られていて……「そんなルビ必要なくないか?」と思うところはありました(笑)
こころ:そうそう(笑) カタカナのルビからいかにもな「仕事ができる人」オーラが漂ってますよね。
坂上:でも、僕は今回の候補作の中では『キャピタル』を一番評価しています。確かに、一読した限りでは自己啓発本めいた文章で書かれた「意識高い系」の小説という印象は受けるし、「ビジネスの世界のことを文芸誌の領域に持ち込んでみました」という風にも読める。
実際に、最初のうちは文体にも鬱陶しさを感じてしまうわけですが、そういう「鼻につく意識の高さ」はこの小説ではある種のトラップになっていると思います。というのも、この小説はアリサの内定辞退をめぐるミステリー仕立てになっていて、主人公がその謎を探るうちに、高野の体現する世界に対置されるように、過去のお祭りの光景など「失われたもの」が浮かび上がってくるようになっている。そして、それらの「失われたもの」の存在によって、主人公の須賀の中にビジネス界の思考慣習に対する批判的意識や懐疑心が介在しだすようになる……小説の後半にはそういう仕掛けがされているので、前半の印象が覆されるような構造が作られている。ルビの話も、それに対応する伏線になってるんですよね。
犬:確かに、「どんでん返し」的な要素を含め、構成がすごくスマートな小説ですよね。その一方で僕は『キャピタル』について、ヒロインの描写にかけてはかなり野蛮なことをしている小説だと思ったんですね。例えば、作品の中でヒロインのアリサは主人公によって繰り返し「陶器」に喩えられていますが、この口ぶりからもインテリ美女を一つの「商品」としてやり取りするような“価値の経済”の原理こそが、この小説を司る力学なのだということがわかる。
ただ、この残酷さは主人公である須賀自身にも及んでいて、彼はファームでの生き残りから離れた場所に身を置きながらも「マッチョな経済原理の中で必要とされなくなる不安」につきまとわれているように読めます。
こころ:作品を通じて、高野が体現する価値観と主人公の間には曖昧な距離感がありましたね。坂上さんも言った通り、最終的には高野をどこか悪者化するようにして小説が締めくくられますが、主人公については今後のアクションが宙ぶらりんのままですし。
犬:僕はエンディングが宙ぶらりんでよかったと思ってます。「全部システムが悪い」とするのは簡単だけど、それとは別のパラダイム(思考の枠組み)にたどり着くのは極めて困難なはずなので、安直な解決がなくてかえってよかった。アリサと須賀との関係についても、最後にとってつけたように二人が結ばれて終わっていたら、「ああ、調査仕事の“報酬”として彼女を受け取ったのだな」という風に感じてしまったかもしれませんが、そうでなくて心底安心しました(笑) さっきも言った通り、ずっとヒロインの扱われ方については違和感ばかりだったので。
坂上:読んでいて気持ちの良い小説ではなかったかもしれませんね。ただ、作品を通して、現代的なビジネスのあり方についての批判性を込めているのも確かです。僕は、新人賞の候補作を読む際には「作品に今この時代に書かれる必然性があるかどうか」を考えるのですが、その現代に対する批判的視点こそ、僕が『キャピタル』を評価したポイントでした。
グローバルな資本主義がますます強力なものになっていく世界の中で、「多様性」「断片性」を小説に落とし込んでいくのはかなり難しい作業ですが、『キャピタル』ではグローバル資本主義のシステムや思考法が、個人レベルのつながりや関係性を壊していく様が描かれている。さらには「システム」と「人間」の間のひずみをアリサの一族をめぐる亡霊めいた過去を通じて表現している。それが一定の水準を超えて上手くっているし、この挑戦自体はかなり価値のあることです。
ただ、構造がすごくキレイで読みやすい作品になっている分、小説の「タメ」というか、「語りきれない部分」、「小説の構造には落とし込めない部分」を追求すればもっと良い作品になったのでは、とも思います。
宮内悠介『カブールの園』:歴史・技術・トラウマ……重厚なテーマの詰め合わせ
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【あらすじ】サンフランシスコで暮らす移民3世のレイは、小学校時代に受けたいじめにまつわるトラウマを抱え、VR治療を受けていたが、勤め先のITベンチャーから休暇を命じられる。休暇を利用した旅の途中にかつて日系人収容所であった博物館を訪れたレイは、祖母や母の世代が生きた日本人のアメリカ史と出会うのだった。
犬:「現代を批判する小説」ということで言えば、坂上さんが『キャピタル』について感じたように、僕は『カブールの園』にその要素を色濃く感じました。これは、オバマ政権からトランプ政権へと移行する2017年のアメリカについて書かれたというべき小説であって、アメリカ西海岸のITビジネスが体現するリベラルな価値観の脆弱性や矛盾について直視しながらも、「ありうべき世代の最良の精神を守り通す」ためには何をすればいいのかについて真剣に考えた小説であることには異論はないと思います。
坂上:今回の候補作の中で、『縫わんばならん』と『しんせかい』が日本文学の私小説的な伝統をアップデートした作品だったとすれば、『キャピタル』、『ビニール傘』、そしてこの『カブールの園』が2017年に書かれるべき新しい小説の形を模索した作品になると思います。ただし、『カブールの園』は情報量が多すぎるのが難点だったかな……と感じています。
この作品は、宮内悠介さんの小説の集大成になっているとも言える小説です。ドライな文体という意味では『ヨハネスブルグの天使たち』、主人公が精神を病んでいるという設定で言えば『エクソダス症候群』を思い出させますね。今作では音楽が重要な役割を果たしますが、2016年に出た『アメリカ最後の実験』もまた音楽をテーマにした小説でした。そのような宮内さんの過去作の要素を注ぎ込んで、その上にテクノロジーや歴史にまつわる要素を付け加えているのが『カブールの園』だと思うんですが、テーマとしてやや散漫な印象を受けてしまうことも否めない。
こころ:そのせいか、作中の母娘の関係についても最後ではありきたりな落とし所になっていて、そこが物足りないポイントでしたね。主人公の抱えるトラウマの度合いからすると、あまりにも解決の仕方があっさりしすぎていたような気がします。
坂上:作中には日系人が収容されていたマンザナー収容所が登場しますが、本来「収容所」というのは読み手にとっては非常に大きなモチーフで、「VR」や「音楽」もまた然り、それぞれが単独で一本の中編になりうるテーマであるはずです。この作品ではそれらのテーマ同士が有機的に繋がっているとは思えないところもあって、こころさんも言う通り「人間を描く」という部分においても手薄な印象を受けるのかもしれません。
犬:それは小説の長さの制約もあるかもしれませんね。僕がこの小説を高く評価しているのは、このITの時代でコミュニケーションも考え方もどんどんフラットなものになっていく一方で、『カブールの園』には私たちの足元に積み重なった「歴史の層」について記述しようとする意欲がある。さらに、読者は主人公のレイが移動する“日本人のアメリカ”を追体験することによって、この21世紀にまで広がっている「歴史の地形」を体感することができる。小説に「時間的・歴史的厚み」を持たせようとする試みでいえば、今回の候補作の中で一番だったと思います。
ただし、だからこそもっと長編的スケールで読みたかった、というのが素直なところでもあり……。僕の大好きなD. H. ロレンスの『虹』のように、「祖母にとってのアメリカ」「母にとってのアメリカ」「娘にとってのアメリカ」をそれぞれ等しい厚みで描く年代記として書かれていれば、テーマの稀少性からしても読み応えがさらに増したと思います。
こころ:「歴史の厚み」というか「現在の中にある過去」ということでいえば、レイたちが展開している「トラック・クラウド」というサービスも、ユーザーがオープンソースで音源を自由にミキシングするための仕組みでありながら、ちゃんと過去の音源のクレジットを継承するという側面も持っていますよね。「伝承・継承」というテーマでは軸がしっかり通っているのかも?
坂上:トラック・クラウドに関しては、作品の最後で「革新的な技術は用いられていない」としっかり言い切られているのが大事なポイントですよね。やや結論として明確すぎるきらいもありますが、「今あるものの中での解決を図る」というリアリズムの範疇での着地点となっている。
「今あるものを伝承する」というテーマでいえば、作品の中では野本一平という人による「伝承のない文芸」という評論から「日本語表現による文芸作品にアメリカ的(中略)なものを求めるのは無理であろう。言語のもつ叙情の体系は、風土が変っても容易に変貌しようとしない。」という文章が引用されています。しかし、『カブールの園』という小説自体についていえば、文章がぶつ切りで、体言止めも多いため、すべてにおいて断片的でドライな印象を受けます。つまり、いかにも日本的な文章の叙情性とは無縁の文章で書かれている小説なのですが、この文章作法自体が「21世紀のグローバルスタンダードに通用する日本語の文章」として試行錯誤された結果なのだ、と好意的に評価することもできるでしょう。
ただし、海外の現代作家を見渡せば、例えばレイモンド・カーヴァーのように、終始ドライな文章に徹しながらも隙間を通じて気味が悪くなるほどの情念を感じさせる作家がいる。宮内さんも、「盤上の夜」などが顕著であるように、「技術と人間」という大きな問題系が作家活動の背骨としてあって、文章からもその大きな問いにまつわる情念が感じられる書き手なのですが、今作ではその問いに迫る力がちょっと弱かったかな、と思っています。
こころ: 不思議と坂上さんの話を聞いているうちに、散らかっていた印象がすっきりしてきたかも。宮内さんの過去作と合わせてまた読みなおしてみたくなりました!
古川真人『縫わんばならん』:「欠落したもの」をどう語るか
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【あらすじ】長崎県の旧家に生まれた女性たちを中心に、4世代の生きた時間を3部構成で描く。夢と現実の境目が曖昧な敬子、その妹である多津子、孫世代の稔の視点を通じて“生きた時間について語ること”に迫った意欲作。
こころ:『キャピタル』のような構造のしっかりとしたクールな文章、『カブールの園』のようなドライで断片的な書き方とは違って、『縫わんばならん』は全体的にもったりしていて、人物同士の関係性も読み取りにくく、かなり読むのに苦労した作品でした。
ただその一方で、リフレインのように現れる「欠落感」や「夢うつつの感覚」から、作品全体がまさに「情念」として醸している要素をうっすらと感じとることはできたかな?とは思いますが。
坂上:『カブールの園』と似たようなテーマを扱いつつ、対照的な作品なのではないかと思います。『カブールの園』は過去の記憶を未来に継承しようという意思がはっきりと打ち出された小説ですが、『縫わんばならん』は「過去に起こったことは全て曖昧だ」ということをテーマとしている。実際に、作中には「思い出す」という表現が何回も出てくるし、「夢」にまつわる記述も数多く登場します。その夢に関しても、最初の視点人物である敬子は「今、夢を見ているのか、体が動いているのかもわからない」人物として登場している。
このようにして「思考」と「(身体の)動き」、さらには「夢」と「記憶」の境目がどんどん曖昧になっていくような仕掛けになっている小説だということはわかります。ただ、その仕掛けの先にあるものが今ひとつはっきりとしませんでした。
犬:坂上さんの言うこの小説の「仕掛け」が意味しているのは、こころさんも言ったように、「何か欠落したものがあるということについて、私たちはどう語ればいいのだろう」ということですよね。その先になにを感じ取るかは人それぞれだと思います。地方に生きている人であれば、その欠落を取り巻いているものを「地方の現実」として受け取るかもしれないし、ご年配の方が読めば「老いるという経験」を感じ取るかもしれない。
いずれにせよ、小説としては全く素朴な書き方をされていなくて、語られる内容の時系列も乱脈的だし、人物関係もあえて分かりにくくなるように描かれている以上、じっくりと腰を据えて小説と対峙しないと見えるものも見えてこないだろうし、現代の読者にとってこう言う「喉ごしの悪い文章」は見向きもされないだろうな……という懸念もどこかにあります。
こころ:「喉ごし」は確かに悪かった(笑) ただ、そのモタモタ感を通じて夢うつつの曖昧な人物たちの時間体験とシンクロできるようになっているのかな、とたった今思いました。
坂上:この小説が格調高い文章で書かれているのは間違いないことです。文章として読者に伝わる範囲は崩さずにおきながら、単なる「情報」としての言葉ではなく、句読点の用い方や文章の長さの選択ひとつひとつにも、作家として伝えるべき内容がこもっている。そういう「意匠」の部分はやはり高く評価されるべきだと思います。
僕が作中で面白いと思ったのは、敬子が自分の呼び名の変遷について思いを巡らせるところです。自分は連綿と続く「同じ時間」を生きているはずなのに、周囲からその時間が勝手に分節されるという人生の不条理が伝わってきました。おそらくタイトルの『縫わんばならん』が意味するのは、そうやってバラバラに分節された時間を再び一つに統べ合わせよう、ということだと思うのですが、完全に縫い合わせるのは不可能だから、曖昧になんとなくつないでいく、という形で小説が構成されていますね。これもまた、仕掛けとしては上手いと思うのですが、個々のエピソードを面白く感じられないというのは大きな難点だと感じました。
こころ:手厳しい! けど、本音を言えば私も同じ感想です。「人生のエピソードの大部分は傍目には味気ないものだ」と言われればその通りなのかもしれませんが、小説を読むからにはもっと別の醍醐味も欲しいという思いも捨てきれません。
坂上:僕にとってこの小説が『キャピタル』や『カブールの園』に比べて見劣りして感じられるのは、他の2作に比べて新しい情報が少ないからです。「グローバリズムの時代の人間関係って、こういう工夫をすれば描くことができるのか!」とか、「文章を通じて“アメリカ的なもの”に対抗するにはこういう書き方があったか!」といったような発見がなくって、『縫わんばならん』で描かれているような人生への諦観はどうしても「知っていること」の範疇を出ない。
そして、もしも読者にとっての「知っていること」を小説に落とし込むのであれば、個々のキャラクターやエピソードがそれなりに目を引くものでなくてはいけないでしょう。
犬:なるほど。今ふと思ったのですが、この小説は3部構成になっていますが、この構成こそが「味気なさの元凶」なのかもしれません。第1部では夢と現実の境目がきわめてぼんやりとした敬子の内面生活について書かれたパートで、全体的に詩的な静謐さが漂う文章、第2部は妹の多津子の目から一家の時間を振り返るパートですが、こちらは素朴な家族小説をモンタージュ式に貼り合わせたような文章になっている。さらに第3部では、孫世代の稔が「事実としても記憶としても残らない死者の時間を、残された者たちはどう意味づけ直すのか」といったことについて思いを巡らすことで、先行する2つのパートを受け止め、テーマに一貫性を与えている。
「味気なさの元凶」といったのは、読者にとっての小説を読む醍醐味よりも、テーマの一貫性を優先してこの3部構成が仕立てられているからなのかもしれないですね。
こころ:ひょっとしたら、敬子のパートだけでも成立しているのかも?
犬:それはアリかもしれないですね! というのも、僕は「またしても、そう敬子は考えた。だが、そのときすでに話しはじめていることに、彼女は自分ではしばらく気がつかないでいた。」というこの小説の最後の段落の言葉に本当にハッとさせられて、個人的には「小説を通じて細々としたエピソードが語られてはきたけれど、結局はこの敬子の生きているドリーミーな日常生活こそこの作品の肝だよな」って思ったんです。
だから、視点人物を切り替えるよりも、全編にわたって敬子の抱える「生の曖昧さ」について散文詩のような文章で書かれていた方が、僕みたいな読者にとってはより味わい深いものになっていたかもしれないですよね。「テーマ」や「意匠」に閉じることなく小説を書くということの難しさについて、非常に考えさせられます。
(次ページに続く)
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