【第165回芥川賞受賞作】石沢麻依『貝に続く場所にて』、李琴峰『彼岸花が咲く島』はここがスゴイ!

石沢麻依『貝に続く場所にて』、李琴峰『彼岸花が咲く島』の受賞が決定した第165回(2021年度上半期)芥川賞。その受賞候補となった5作品の優れている点や読みどころを徹底レビューします!

2021年7月14日に発表された第165回芥川賞。石沢麻依さんの『貝に続く場所にて』、李琴峰さんの『彼岸花が咲く島』が見事受賞を果たしました。

『貝に続く場所にて』は、ドイツのゲッティンゲンを舞台に、震災による死といった定義することのできない記憶をそれぞれに抱えた登場人物たちが、「惑星の小径」をたどりながら自らの過去に向き合っていく物語。さまざまな人物にまつわる記憶が重層的に描かれた、読み応えのある一作です。

『彼岸花が咲く島』は、ノロと呼ばれる女性が統治し、男女が違う言葉を学ぶ島に、記憶を失くしたひとりの少女が流れ着くというSFのような物語。差別や迫害とそこから生じる問題をテーマにした、意欲的な一作です。

受賞発表以前、P+D MAGAZINE編集部では、候補作の受賞予想をする恒例企画を今回も開催。シナリオライターの五百蔵容さんをお招きして、『貝に続く場所にて』、『彼岸花が咲く島』を含む芥川賞候補作5作の徹底レビューをおこないました。

果たして、受賞予想は当たっていたのか……? その模様をどうぞお楽しみください!

参加者


五百蔵 容:シナリオライター、サッカー分析家。
3度の飯より物語の構造分析が好き。近著に『サムライブルーの勝利と敗北 サッカーロシアW杯日本代表・全試合戦術完全解析』(星海社新書)。


トヨキ:P+D MAGAZINE編集部。特に好きなジャンルは随筆と現代短歌。

(※対談はリモートでおこないました)

目次

1.高瀬隼子『水たまりで息をする』

2.石沢麻依『貝に続く場所にて』

3.くどうれいん『氷柱の声』

4.千葉雅也『オーバーヒート』

5.李琴峰『彼岸花が咲く島』

高瀬隼子『水たまりで息をする』


出典:http://subaru.shueisha.co.jp/backnumber/2021_03/

トヨキ:まずは『水たまりで息をする』から行きましょうか。五百蔵さんはどのように読まれましたか?

五百蔵:今回の候補作には、構想は光っているもののやや荒削りな作品が多かったと感じています。そのなかでこの『水たまりで息をする』は、作者の書きたかったであろうことが隅から隅まできっちりと書けている、緻密に計算された作品だと思いました。しかも単によくまとまっているだけでなく、現代を生きる人間がどのように現実を認識しているかについて、その問題点も含めて書ききっている。「臭い」というものの位置づけが物語を動かす重要な要素になっている点からは、ポン・ジュノ監督の映画、『パラサイト』も想起しました。

トヨキ:「臭い」が作品のキーになっているというのは、たしかに『パラサイト』もこの作品も同じですね。『パラサイト』では社会の階級的な分断を描くために「臭い」が用いられていましたが、この作品では社会生活そのものからの逸脱を表すモチーフとして、「臭い」が重要な役割を果たしていますね。

五百蔵:そうですね。どちらも臭うことそのものが問題という描かれ方ではなく、社会生活のなかで生じるさまざまなシチュエーションのなかで、その「臭い」の捉え方が変わることで問題が生じてくるというふうに描かれている。そういった点の書き方が非常に緻密で、全体の完成度で言えば、この作品がいちばん高いのではないかと思います。

トヨキ:たしかに、全体的なまとまりのよさは私もこの作品が頭ひとつ抜けていると感じました。少ない要素がパズルのように綺麗にはまって結末へと進んでいく、戯曲のような読み心地だなと。

ただ個人的にすこし気になったのは、「狂う」という言葉の扱い方です。主人公の夫はおそらく会社の同僚からハラスメントを受けており、それが原因のひとつとなって水を避けるようになった人物として描かれていますが、トラウマや精神疾患の領域に属するような問題を、「狂う」という言葉を用いて扱っていいのかなと……。そういった手法には、やや疑問を感じました。

五百蔵:その点に関しては僕も気になりながら読み進めたのですが、作中で主人公の夫を「狂っている」と評しているのは主人公と夫の周囲にいる人々だけで、主人公は彼をそうは見ておらず、作品としても夫を「狂ってしまった人」とはみなしていない、という書き方がされていたと思います。主人公たち夫婦の周りの人々は早く答えを出したいから「狂っている」という判断に飛びつくけれど、主人公はむしろその判断を保留し続けている、というふうに。

トヨキ:なるほど。たしかに、主人公は夫を「狂っている」とはみなしていないですね。その判断を保留し続けている、というのはおっしゃるとおりだと思います。

五百蔵:この作品で特にいいなと思ったのはまさにその点で、現代的な生活のなかで僕たちは無自覚にいくつもの判断を保留し続けている、そうせざるを得なくなっているということを丁寧に描いているなと感じたんですよね。判断しなきゃいけないことが日々増えていく情報過多な世界に僕たちはまだ生物として適応できていないから、生き抜くためには日常生活に必須の行動以外、ほとんどすべての判断を保留し続けなくてはいけない。現代社会が人間にそういう生き方を要請している、ということだと思います。

トヨキ:いまお聞きして思ったのですが、判断を保留し続けるという態度って実はそのまま、そのとき選ぶことができる選択肢のなかでもっとも保守的な判断を下し続ける、ということですよね。作品の結末で主人公は「帰ったらお風呂に入ろう」と考えていますが、夫を失ってもなお、お風呂に入るということは主人公にとってすごく自然な思考の流れであるように書かれている。これは、意図せずとも自分と夫の間に「正常/異常」の線を引くような行為だと感じて、すごくグロテスクな終わり方だと思いました。もちろん、作品の構成上、この終わり方しかありえないと思うのですが、ヒヤッとするような読後感だなと……。

五百蔵:そうですよね。夫は逆に「判断を保留しない」生き方を選んだわけですが、そういう生き方をしようと思ったら世界からは守ってもらえなくなる、という。主人公はそれまで、揺らぎつつも結構がんばって夫に合わせようとしているのだけれど、生き抜くためには「お風呂に入ろう」と思わざるを得ない。逃げられないんですよね、彼女も。

トヨキ:逃げられないからあの選択をとらざるを得ない、というのはおっしゃるとおりですね……。けれど、「台風ちゃん」と名づけられた魚が誰にも世話をされず死んでしまったというエピソードが象徴しているように、周囲の人々が無数の判断の保留をし続けることによって殺される命はあるんですよね。

五百蔵:そうなんですよね、判断を保留し続けるということはそのまま、社会の枠組みから外れてしまう人たちを無視し、忘れ去ることにつながっている。そういったところまで意識的に掘り下げて書かれている作品だと感じました。

石沢麻依『貝に続く場所にて』


出典:http://gunzo.kodansha.co.jp/58959/60058.html

トヨキ:では次は、『貝に続く場所にて』です。登場人物がさまざまなアイテムや人物にまつわる記憶を起点に、「惑星の小径」をたどりつつ自らの過去と向き合っていくという構想そのものは非常に読み応えもあっておもしろいなと。

……けれど率直に言うと私は、野宮が幽霊であること、登場人物たちの研究対象である聖画に隠された意味、トリュフ犬が掘り当てるものといった要素のあまりの多さに、終盤はちょっとついていくのに疲れてしまいました。主人公の背中に突如、歯が生えたあたりで、さすがに多いよ! と……(笑)。

五百蔵:要素、過多ですよね(笑)。それに、物語の構成上先に読者に説明しておくべきことを、矢継ぎ早にあとから言い過ぎているきらいはあると思います。それは先に言っとけ! と僕も何十回も思いました(笑)。

でも個人的にはこの小説、好きなんですよね。震災の被害を受けて亡くなった当事者には記憶がなく、直接的な当事者ではない主人公には記憶があって、しかもその記憶を扱いかねている。異なるふたつの立場を調和に近づけていくために、地上の記憶と宇宙の記憶という本来は相容れないものを重ね合わせた「惑星の小径」を登場人物たちがたどるという構想は、トヨキさんもおっしゃったとおり、とてもおもしろい。結果的に、構想したことすべてを過不足なく書ききれてはいないと思うんですが……それでも応援したくなるような力を持った作品だと感じました。この作者にはきっと書きたいことが溢れているんだろうな、と。

トヨキ:そうですね。さっき難点として挙げた要素の多さですが、散りばめられたモチーフが多いということそれ自体よりも、モチーフが説明的であることが問題なのかなと感じます。たとえば前々回の芥川賞を受賞した高山羽根子さんも難解なモチーフを作中に散りばめる書き手だと思うのですが、それらが直接的にストーリーの根幹に結びついてはいなくても、読み手の想像力がどんどん膨らみ、それによって物語がより魅力的になっている。石沢さんの場合はのちのち回収される伏線のために用意された謎のような書き方をしているので、余計に「あれはなんだったんだろう?」という疑問が残るような終わり方になってしまっているのかな、と思いました。

五百蔵:さまざまな要素が入り乱れているけれど、そのなかで引き込まれるようなイメージを提示できていないというのは僕も同感です。ちょっと厳しい言い方をするのなら、全編を通して、描写、表現をしているのではなく、この方なりの言葉遣いで説明をしているだけだと思いました。

トヨキ:たしかに、説明が多すぎて、ゲームや映画の設定集のようになってしまっている部分があるのは惜しいですよね。経験の身体性や当事者性というテーマそのものはとても大きく大切なものだと思うので、この方の文体でそういったテーマを扱うならば、もっと大長編のシリーズものなどでもよいのかなと思います。

五百蔵:そうですね、この方にとってはおそらく、今回の作品の枚数だとちょっと足りないですよね。もっと長ければ、型破りな構想の大きさを持った小説になったかもしれない。デビューしたばかりの方だと思うので、技術的な問題をひとつずつ解消しつつ、ご自身に合った長さや書き方を模索していってほしいですね。石沢さんのほかの作品も読んでみたくなりました。

くどうれいん『氷柱の声』


出典:http://gunzo.kodansha.co.jp/58959/59976.html

トヨキ:3作目は、『氷柱の声』です。私は『貝に続く場所にて』の直後にこれを読んだのですが、同じく東日本大震災の被害とその当事者性というのをテーマに書かれてはいるものの、対照的な作品だと感じました。『貝に続く場所にて』はいまお話ししたようにさまざまな要素が入り乱れている作品でしたが、『氷柱の声』は本当に書きたいことが明瞭で骨太だなと。くどうさんは、小説家としては本作がデビュー作ですが、おそらく第1作としてこれ以外を書く気がなかったんじゃないかなと感じます。本当に書きたいものを書かれたんだろうな、というところが何よりいいと思いました。

五百蔵:僕も『貝に続く場所にて』の直後に『氷柱の声』を読んだので、同じように感じました。両者ともテーマはほぼ同じだし、主人公が自分の体験や記憶を定義しきれていない理由も同じ。けれど、『氷柱の声』のほうがそれをシンプルかつ、過不足なく書けていると思います。

トヨキ:くどうさんは歌人として歌集を出されている傍ら、エッセイの名手でもある方なんですよね。エッセイのなかで発揮されていた台詞やエピソード、キャラクターの力強さといった魅力がそのまま小説の魅力につながっていて、第1作でこれほどまでに完成度の高い作品を書かれたことに驚きました。

五百蔵:なるほど、歌人でもいらっしゃる方なんですね。構想が非常にしっかりしていて、それをぱっと提示するだけで読み手にイメージを喚起させる力が素晴らしいなと思いましたが、そこに由来しているのかもしれませんね。

トヨキ:必要最低限のことしか書かれていないというか、かなり贅肉を削ぎ落とした文体ですよね。余計な余韻のようなものを発生させようとしていないところに、潔さを感じました。くどうさんご本人が東北で震災を経験されているということもあり、芥川賞を受賞するならぜひこの作品であってほしいとも思います。

五百蔵:ご自身の体験を作品にするために模索していった過程でこの書き方に行きついたんでしょうね。

僕が書き方のなかで特にいいと思ったのは、主人公をいろいろなものの交錯点にぽんと置いている点です。主人公は交錯点に立たされているからこそ、自分にとっての経験の定義づけができないままで、あっちはこう見えるしこっちはこう見える、ということを考えざるを得ないキャラクターになっている。シンプルすぎるがゆえに文学的な余白を感じない、という評価をする選考委員もいるかもしれませんが、そういった仕立てのよさに目を向けて評価をしてほしいところですよね。

トヨキ:そうですね。経験の定義づけができずに悩む主人公の姿には、共感する読者も多いように感じます。

五百蔵:『貝に続く場所にて』もそうでしたが、この作品の主人公も「準当事者」と呼ばれるような人物なんですよね。本人も震災を経験しているしその被害の大きさや痛みも身をもって知っているのだけれど、メディアや世間が真っ先にイメージする「震災の被害者」像からは外れている当事者。けれど、そういった人こそ記憶をつないでいくハブになるのだから、当事者と非当事者の二項対立ではなく、その間に位置する準当事者が体験を語るということ、二者の接点を探っていく想像力こそがいまの世の中に必要なんだという感覚がベースにあるのだと思います。

トヨキ:一見、自分とは関係のないできごとと自分との接点を探る想像力というのは、コロナ禍になってなおさら求められているテーマという気がします。そういった意味でも、いまこのタイミングにこそ多くの人に読んでほしい作品ですね。

千葉雅也『オーバーヒート』


出典:https://www.shinchosha.co.jp/shincho/backnumber/20210507/

トヨキ:4作目は『オーバーヒート』です。私はすごくシンプルに、主人公の描き方に非常にリアリティがあるなあ、こういう人いるよなあと思いながら読みました(笑)。「論理がオーバーヒート」しているという言葉が作中にありましたが、たしかに身体性よりも論理を重んじる、なおかつ自意識が過剰ぎみの人はこういう生きづらさを常に抱えているだろうなと……。結末には爽快感を覚えつつも、パートナーに対して「今夜泊まってく?」と言えるようになった主人公の変化がどこで訪れたのかは、いまいちわからないままでした。

五百蔵:始まりと終わりで主人公の認識に大きな変化があったわけではなく、ぬるっとした変化しか生じていないことでむしろ、人間が生きているさまそのものを描いているのだと思います。結末で言うと、なにか大きな転換点があったからパートナーに対してそういうコミュニケーションがとれるようになったわけではなく、シチュエーションや気分で人の認識はどんどん変わっていく、ということがここに現れているのだと感じました。いい意味で、なりゆき任せの人間の姿が活写されているラストじゃないかなと。

僕は、千葉さんはこの作品で小説家として一皮剥けたなと思います。前作の『デッドライン』では、ドゥルーズの哲学を千葉さんがどう解釈しているかということを、作中でしきりに言おうとしているような一作に見えました。今回はそのことを構想やプロットの進め方、描写のなかに自然になじませることに成功している。

トヨキ:なるほど、シチュエーションや気分で人の認識はどんどん変わっていく、ということはたしかに描かれていますね。途中、地元である北関東に閉塞感を覚え続けていた主人公が「日光より先があったのか」と気づくシーンがありますが、ここはどうでしょうか? 彼の自閉的な認識が外に向かって開かれることが示唆されているのかなと感じたのですが。

五百蔵:このシーンで彼は、新しい人間関係によって新しい認識を得たわけではなく、むしろ昔から付き合いのある友人たちとのほとんど自動化された関係のなかに戻っていくことで新しい発見をしている、というのがポイントだと思います。主人公は全編を通して都市生活者の大人として物事を認識し解釈していますが、言ってしまえばこのシーンは、子どものような認識の広げ方をしているんですよね。

子どもの頃、友達と一緒に自転車に乗って遠出をしてみたら、それまではひとりで行けなかった行動範囲の限界のような地点をたまたま突破して、「ああ、この先にも街があったんだ」と思う経験をしたことがある人は多いんじゃないかと思います。そういった経験を繰り返すことで、大人は「世界には自分の行ったことのない場所がたくさんあるけれど、そこに足を踏み入れても大きく自分の世界は変わらない」ということを覚えていく。だから、多くの大人は同じようなシチュエーションに立たされても「日光より先があったのか」なんてあまり感じないと思うんですが、彼はそう感じる人物として描かれていて、ここでは認識のうちで過去と現在、未来が往来可能に混在した人間が描かれている。これも、ドゥルーズ哲学で言うリゾーム(※始まりもなく終わりもなく多方面に、重層的に錯綜しながら延びてゆく思考形態)的存在として人間の生を描くという試みの一環だと思います。

トヨキ:なるほど……! 大きな転換点が主人公を変えたわけではない、と五百蔵さんがおっしゃった理由がわかりました。たしかに最後、なにかをきっかけにして主人公が閉塞感から全面的に解放されるわけではないけれど、そういう自分を否定はしない、という書き方ですね。

五百蔵:そう思います。そういった書き方が千葉さんの哲学上の主張の物語的な実践になっているのがいいですよね。平たく言えば、主人公に隙や揺らぎがある。そこがいい。

トヨキ:主人公が揺らぎのある人物として書かれているのがそのまま彼のキャラクターとしての魅力にもなっているのがいいですよね。才能もあって世渡りもうまいライバルの研究者のことを彼ならば毛嫌いしそうなのに、うまいこと丸め込まれてわりと好いているところとか……意外と人情に弱いというか(笑)。

五百蔵:人情にも弱いし、わりと社会性にも弱い(笑)。そういう人物像が作品の独特なおかしみや味にもつながっていると思います。

李琴峰『彼岸花が咲く島』


出典:https://www.bunshun.co.jp/business/bungakukai/backnumber.html?itemid=327&dispmid=587

トヨキ:最後は、『彼岸花が咲く島』です。大筋のストーリーはシンプルですし、李さんの書きたいことも明瞭に伝わってくる作品だと思うのですが、個人的にはこれも『貝に続く場所にて』と同じく、壮大な構成に対して、すこし要素が多すぎるように感じました。

五百蔵:そうですね、僕も同じで、この作品に関してはちょっと設定の粗が多いなと思います。いちばん重要なところで言うと、この島の秘密が守り通せているということに説得力がない。言葉がこんなにも外部に流れ出てしまうなら、秘密も一緒に流れ出てしまうはずじゃないかと思います。

トヨキ:たしかに、作品の設定がかなり壮大なファンタジーであるからこそ、ディテールのリアリティは突き詰めてほしかったです。

五百蔵:構想に筆力が追いついていないのか、説明が必要になったタイミングで島の様子を突然細かく書き始めてしまっているような箇所がいくつか見られますよね。以前、同じく芥川賞の候補になった李さんの『五つ数えれば三日月が』のときにも同じことを言った記憶があるのですが、一つひとつの描写を詳細にすることでストーリーになにかが照射されているわけではないので、せっかくのディテールの書き込みがあまり効果を生んでいないように感じました。

トヨキ:個人的に気になったのは、「正しいと思うことをすればいい」という最後のメッセージのシンプルさです。女性が統治するこの島のシステムが実際に女性解放や男女平等をもたらすかどうかはわからない、けれどもしもこの先立ち行かなくなることがあれば、それはそのときに考えればいい……、というメッセージが楽観的に残されますが、現実世界の男女格差はすでにそれだけでは立ち行かなくなっているという感覚があるので、もうすこし批評的な視点が欲しかったと感じました。

五百蔵:そうですね。ただ、ツッコミどころは多い作品ではあると思うのですが、感情の赴くままに生きている人々の姿を描くことで、ある種自己生成的に架空の島の歴史を描くという試みをしているのだとしたら、非常に挑戦的でおもしろい作品ではあると思います。李さんの書きたいテーマも明瞭ですし、選考会ではこういった意欲的な作品を評価する人もいそうだなと思いました。

総評

トヨキ:では最後に、受賞予想に行きましょうか。今回はそれぞれにベクトルがまったく異なる作品ばかりで、どれが受賞してもおかしくないようなおもしろい回だなと思うのですがいかがでしょうか。

五百蔵:たしかに完成度にばらつきはあるものの、それぞれに扱おうとしている社会問題への高い意識も感じますし、規格外のおもしろさがある作品もあってなかなか読めないですね。

復興も半ばのなか東京五輪が開催される年でもある今年、当事者・準当事者の立場から震災を描く作品が2つ候補に入ってきたということには非常に大きな意味があると思っています。震災の被害を直接的に受けていない都市生活者であっても「準当事者」としての視点を持つことが、いまこそ必要とされていると感じます。

トヨキ:自分を「当事者ではない」「この事態には関係ない」と思わず、内省する想像力を持つということですよね。

五百蔵:そうです。その想像力がなければ、今後さらにあらゆることが立ち行かなくなっていく時代だと思うので。そういった意味で言うとやっぱり、『貝に続く場所にて』と『氷柱の声』の2作品には注目が集まってほしいと思います。たださっきお話ししたとおり、『貝に続く場所にて』は書ききれていない部分も多いので、テーマをシンプルに表現した『氷柱の声』が最有力候補かなと。

もうすこし射程を広くとるなら、現代人の認識とそこから生じる問題を描いた『水たまりで息をする』と『オーバーヒート』が候補に入ってくるかもしれませんね。この2作は完成度も抜群ですし。

トヨキ:そうですね。震災から10年という節目の年でもありますし、『貝に続く場所にて』と『氷柱の声』はたしかに注目されそうです。私は作品としての骨太さ、力強さが好きなので、『氷柱の声』を推したいと思います。7月14日の受賞作発表が、いまから楽しみですね!

初出:P+D MAGAZINE(2021/07/13)

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