山下澄人『しんせかい』はここがスゴい!【芥川賞受賞】

岸政彦『ビニール傘』:「断片」たちの仮定法

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【あらすじ】大阪に暮らす数々の「俺」たちの満たされない日々が、「黒髪の女性」を中心にいくつものパターンで浮かびあがる。それらの断片を平行世界的に積み上げる前半と、和歌山に出戻ったある一人女性が大阪での生活について述懐する後半からなる、短くも鋭い都市生活のスケッチ。

 

こころ:続いては『ビニール傘』ですが、これもまた「バラバラなものを同時に見せる」という手法において『縫わんばならん』と似ているのかもしれません。ただ、『縫わんばならん』ほど読む上での当惑感はなかったというか、場面がコロコロと切り替わる中で、どういうルールに従ってそのスイッチが押されているのかは、説明がなくともわかるようにはなっています。

 

犬:前半部分は本当に、「しりとり」みたいな小説ですよね。黒髪の女性をめぐるやぶれかぶれな男たちの日常が、それこそコンビニのビニール傘が知らぬ間に別の人のものとすり替わっていくかのように、パラレルに転換していく仕掛けになっていて、この手法に僕は斬新さを感じました。こうして断片をつなぎ合わせることで、都市に暮らす若者のリアルを総体としても浮かび上がらせるこの手法は、岸さんの社会学者としての面目躍如の文章、といったところなのでしょうか?

 

坂上:僕はまず、社会学者である岸さんが小説を書いたことにびっくりしたのですが、よくよく考えてみると『断片的なものの社会学』という本も社会学の書物というよりも、人文学者によるエッセイのような本だったんですね。あの本のイントロに「[…]この世界のいたるところに転がっている無意味な断片について、あるいは、そうした断片が集まってこの世界ができあがっていることについて、そしてさらに、そうした世界で他の誰かとつながることについて、思いつくままに書いていこう。」と書いてある通り、本全体としてロジカルな統一性をもたせるよりも、断片を断片のまま残して記述する、という書き方がされていました。

その思想を小説にも直接用いているという点には、岸さんの書き手としての一貫性を感じますね。

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こころ:本当に、『ビニール傘』は「断片」として都会を暮らしながら、誰かとつながることの可能性について書かれた小説、という気がします。

 

坂上:本来、この小説の前半部分に登場するような断片的な〈個〉としての生は、近代的な意味での「小説」にはなりにくいテーマなんです。主人公が市民社会のなかで成長していく様を一本の線に沿って描くような、近代のビルドゥングスロマン(教養小説)としてのストーリーテリングの手法には収まらない存在として、彼ら名もなき「断片」たちの存在がある。

その代わりに『ビニール傘』は、1部では「物語」にならない男たちの断片性について焦点を当て、2部では美由紀という女性の視点を通じて1部の「断片」との間に生じた「かもしれない」つながりについて仮定法的に想像していくという構成になっている。ひょっとしたら美由紀はあの男と付き合っていたかもしれないし、また別の男と付き合っていたかもしれない……そのようにして断片同士の間につながりは生まれるかもしれないし、生まれないかもしれない。それを構成面からも表現しているということもあり、短編としての完成度がかなり高い作品ですよね。

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こころ:ある男が海辺で鍵を拾ったと思ったら、別の男がワンルームの鍵を開けている、といった具合に「断片」のエピソード同士がイメージを通じて緩やかにつながっていくのも印象的でした。「ひょっとしたら同じ鍵なのかも?」と思った瞬間に、都市を生きる上での「仮定法的なつながり」が広がっていくような気がして。

 

坂上:それでいうと、僕が印象的だったのは「カップラーメン」のモチーフでしたね。エレベーターの中に捨てられているカップラーメンがあり、波打ち際に漂うカップラーメンがあったと思えば、死体の発見場所となった部屋にも食べ残したまま放置されているカップラーメンがある。「大阪に暮している」以外の共通項はないはずなのに、こうした特定のイメージの連鎖によって、こころさんも言ったような「つながり」の可能性が示唆されているあたりにも、作者の高い技量を感じます。

 

犬:僕には、それらのモチーフが意味しているのが、「金もないし、希望もない」ことから生まれる消極的なつながりであるようにも思えました。「俺たちが暮らしているのはコンビニとドンキとパチンコと一皿二貫で九十円の格安の回転寿司でできた世界で、そういうところで俺たちは百円二百円の金をちびちびと使う。」という記述がありますが、現状に満足していようとしていなかろうと、そこから発展していくというイメージが全く持てないような、暗くて出口のない都市のうらぶれにおいてつながっている、という気がするんですね。

そんな前半部分を経て、小説の最後は女性の布団の中に死んだはずの子犬がもぐりこむと、月の光に照らされた幸せな寝床が広がっているという幻想的な描写で締めくくられますが、この場面に僕はお寺の「胎内巡り」にも似たものを感じたんです。つまり、迷路のような都市のうらぶれを低徊した先にある〈死〉と〈再生〉を描いているんじゃないだろうかと。なんだか大げさな解釈のようですが、ささくれだつようなリアルな日常だけでなく、こうしたイメージやメタファーに富んだ描写を交えている点も個人的には満足のいくポイントでした。

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山下澄人『しんせかい』:「曖昧」で「いいかげん」な現代性

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【あらすじ】19歳の山下スミトは、【谷】と呼ばれる演劇塾で、著名脚本家である【先生】の指導のもと俳優や脚本家を目指す若者たちと自給自足の共同生活を営む。苛酷な肉体労働や、理不尽めいた【谷】のルールの様子を滑稽に描きながら、作者自身の記憶の再構成を試みた一作。

こころ:俳優でもある山下さんが、実際に参加していた倉本聰の富良野塾での経験を題材にして書いている小説だけあって、文章からも演劇的な要素を感じる小説でしたね。例えば、ぬかるみにハマればぬかるみにハマっているかのような文章になって、馬に乗れば馬に乗っているようになり、セリフの「間」について人物たちが話している時は実際に「間」を取っているような書かれ方をする……台本のト書きと一緒に物語を読んでいるような感覚を覚えることがありました。

 

犬:そうですね。そういうテクニカルな面も多く持っている小説ですが、同時に青春小説としても成立しているので、今回の候補作の中では一番多くの人に楽しまれる作品かもしれません。

 

坂上:僕は山下さんのこれまでの作品の中で、この『しんせかい』が一番好きでしたね。『鳥の会議』などと比べても、中心にストーリーらしきものがしっかりあるので、筋を追いながら楽しめるようになっています。面白いのは、【谷】で主人公は2年暮らすのに、最初の1年のことしか書かれないままで、唐突に小説が終わってしまうあたりの「いい加減さ」ですね。

本当なら1期生が出て行った後にも「果たして主人公はその後【谷】で俳優を目指すのか、脚本家を目指すのか」といったようなテーマ的なものはまだ残っている筈なのですが、それを全部放棄して「それから一年【谷】で暮らした。一年後【谷】を出た。」でぶつ切りにされている(笑) 。

 

犬:この投げっぱなしな感じや、要所で「意識の流れ」をそのまま文章で再現するような書き方も含め、僕はこの『しんせかい』が夏目漱石の『坑夫』に似ていると思ったんですね。『坑夫』もまた、あらすじをかいつまんで説明すると、「炭坑に行って、出てくる」だけ。「炭坑に行って心境がこう変わった」とか、「こんな成長をした」ということは書かれない。

『坑夫』は漱石の元を訪れた若者の体験談を元に書かれたルポルタージュ的な作品で、『しんせかい』も実体験をベースにしているから、自ずと似たような作りになっているのかもしれません。

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こころ:私もこの小説はストーリーやテーマに主眼があるというよりも、たまねぎ植えだったり馬の世話だったり、「俳優」や「脚本家」といった職業には無関係な、【谷】での生活に関して丁寧に描写することで、滑稽さを生み出している小説だと思います。

 

坂上:【先生】の発言の中で、「ぼくは地のついた役者や脚本を育てたい[…]うわっつらだけの、きれいなだけの、そういう流行りのものじゃなくてね」という箇所がありましたが、この発言と小説の文体がリンクしているような感覚を覚えました。

演劇人にとっては当たり前の発想なのかもしれませんが、ここで先生の言っているのは「良い脚本・良い演技というのは体を動かすことと連動している」ということなんですね。実際、僕たちが小説を読む際、やっぱり体験に根差していない文章というのは見え透いてしまうでしょう。そのあたりに山下さんならではの創作論のようなものが見え隠れしているのかな、と思います。

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犬:そうした「体験」や「過去」の再構成の仕方について、かなり独自のアプローチをしているのが印象的でした。それぞれの場面について、あたかも自分がその場で実際に経験しているかのように即興的に描写すると同時に、その過去の場面を「作家」としての意識で振り返るもう一人の自分が登場する、という仕立ての小説になっていますね。

 

坂上:この作品にも他の候補作と同じように「記憶」にまつわる要素があって、最後に「すべては作り話だ。遠くて薄いそのときのほんとうが、ぼくによって作り話に置きかえられた。置きかえてしまった。」と書かれているように、ぼやけた記憶をベースに全体をぼかすような小説なんです。

なのでこの小説自体に過剰にテーマ性や整合性を求めるのは間違いなのかもしれません。ストーリーはあるのだけど、「それぞれのエピソードに意味はあるのか」とか「つながりはあるのか」と言われれば、あるかもしれないし、ないかもしれない。そういう意味で、これもまた「断片」を素材にした小説なのだと思います。

 

犬:確かに、これを近代小説のロジックで書こうと思えば、「かくして私は俳優としての下積み時代を終え、そしてそこから実際に舞台経験を重ねていくのであった」というような書かれ方をするのでしょうが、おそらく書き手にそんな意識は皆無でしょうね。

 

こころ:そう考えると、【谷】を舞台にした小説でなくてもよかったのでは?曖昧な記憶について曖昧に書ければそれでよかったのでは?という気もします(笑)

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【総括】芥川賞 VS アマゾンレビュー?

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犬:さて、これまで第156回芥川賞候補作を一気にレビューしてきましたが、ここからは総評に入りたいと思います。個人的にはどの作品にもそれぞれ推したいポイントがあるのですが、芥川賞のもつ文学全般へのインパクトからすると、どの作品が受賞にふさわしいと作家である坂上さんはお考えですか?

 

坂上:やはり『キャピタル』ですね。『ビニール傘』や『縫わんばならん』は非常によく書けている小説ではあるのですが、「文学の今後につながる」という意味では『キャピタル』を推したいと思います。

 

こころ:「今後につながる」というのは、例えばどういった点で?

 

坂上:今はたとえ芥川賞受賞作品であったとしても、アマゾンレビューでは「芥川賞をとった作品だから読んでみたけど、こんなものかとガッカリしました」というようなレビューが書かれてしまい、「1」や「2」といった評価を受けているような実情があります。だからこそ、「純文学」というジャンルをこの後どこまで開いていくべきか、どこまで閉じるかという問いに応える役割も文学賞は持っているのではないかと思うんです。少なくとも、新しく入ってきた読者をポイポイ追い出していくのは間違っている。

じゃあ純文学を開くために何が肝要かといえば、それは「読みやすさ」なのかもしれないし、「現代的なテーマ」なのかもしれない。いずれにしても現代人にとって受け入れやすい形に翻訳して、読者の前に提示することの重要性は高まっています。そういう意味で、『キャピタル』や『カブールの園』のような現状への自覚性は2017年の文学にとって貴重なものだと思います。

 

犬:確かに、坂上さん一押しの『キャピタル』は読みやすくて現代的な作品でしたね。ただ、読者によっては「軽すぎる」と感じる人もいるかもしれませんが。それもまた、文学が生き残り続けるためには必要な新陳代謝なのでしょうか。

 

坂上:『キャピタル』が必要な水準をすべてクリアしているかまでは断定できません。けれど、個々の作家がテーマを発見しなければいけない時代において、グローバル資本主義と個人の関係を物語化したことの意義は大きい。これからは、小説の持つストーリーテリングの技術や、フィクションの技術に、巨大で複雑きわまる現実をどう落とし込んでいくかが、純文学が生き残れるかどうかの基準になってくるのでは、と思います。個人的に推したい作品は『キャピタル』、受賞予想は「しんせかい」と言うのが今回の雑感です。

こころ:それはまたなんで?

 

坂上:単純に、『キャピタル』の簡潔性よりも『しんせかい』の曖昧化した個人性の方が選考委員に評価されそうだなと思って。小川洋子さんや川上弘美さんは『しんせかい』を推すのかな、というイメージがあります。けど、僕としては『キャピタル』に獲ってほしい!

 

〈了〉

初出:P+D MAGAZINE(2017/01/17)

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