文月悠光著『洗礼ダイアリー』は平成生まれの詩人による初エッセイ集。著者にインタビュー!
中原中也賞を18歳で受賞した、平成生まれの詩人が、「生きづらさ」を言葉で解き放つ。研ぎ澄まされた言葉で日常や身辺を綴る、記念すべき初エッセイ集。その創作の背景を、著者にインタビュー。
【ポスト・ブック・レビュー 著者に訊け!】
18歳で中原中也賞受賞平成生まれの詩人による初めてのエッセイ集
『洗礼ダイアリー』
ポプラ社 1400円+税
装丁/川名 潤(prigraphics)
装画/カシワイ
文月悠光
●ふづき・ゆみ 1991年札幌市生まれ。早稲田大学教育学部国語国文学科卒。08年に現代詩手帖賞を受賞しデビュー。09年、第一詩集『適切な世界の適切ならざる私』を発表し、中原中也賞と丸山豊記念現代詩賞を最年少受賞。13年にはNHK全国学校音楽コンクール課題曲「ここにいる」を作詞、アイドルオーディション「ミスiD2014」では柚月麻子賞を獲得し、イベントやラジオ等で活躍。詩集『屋根よりも深々と』の他、『わたしたちの猫』が近々刊行予定。159㌢、O型。
どんなに滑稽であっても色んな自分に一つ一つ気づく過程を誠実に綴りたい
詩人も、人の子。バイトもすれば、メシだって食う。
「それこそ『詩人って何を食べて生きてるの?』ってよく訊かれるんですけど、普通に『今朝は納豆』とか『甘い物も好き』と言うとなぜかガッカリされちゃうんですよね(笑い)」
まして15歳でデビューし、中原中也賞を史上最年少の18歳で受賞した文月悠光氏(25)の場合、事あるごとに〈詩人ならではの感性〉を求められ、〈生きてる詩人〉として珍しがられたという。
そうした世間の反応をも、どこか適切な体温をもって見つめる彼女の初エッセイ『洗礼ダイアリー』には、幼少期から現在に至るまで、どんな違和感や理不尽にも言葉で向き合ってきた氏の、数々の洗礼遍歴が綴られる。
仮に詩人=繊細とすれば、彼女は〈大人になる〉こと一つにも考えや言葉を尽くし、ただ漫然と歳だけ食った我々大人はドキリとするほど。繊細さとはつまり、自分を取り巻く世界と真摯に対峙する、律儀で丁寧な生き方のことだった!
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第一詩集『適切な世界の適切ならざる私』にこんな一文がある。〈十四歳の冬。自分を取り巻く世界に「流されるまま」生きることは、たまらなく卑怯に思えた。私はいつだって、この世界とフェアでありたかった〉〈私にとって、“詩”とは、紙に整列する活字ではなく、日常の中で心や身体に起きる、生きた“現象”である〉
「こういうことを書くから、『詩人は怖い』って思われちゃうんですよね(笑い)。
今回エッセイ集を出して思ったのは、エッセイは詩と違って作者に関する情報が多いためか、読者が共感しやすいようなんです。同世代は自分自身に重ねて読んでくれるし、30代以上の方だと『自分も昔はこういう感覚があったのに、いつから蓋をしてしまったのか』とか、読者の感想も内容に対してストレートでした。逆にいうと、詩の言葉は良くも悪くも刺さり過ぎる。何の情報もないムキだしの言葉に対峙するのは、耐性のない方には相当怖いと思うんです。それが一般に詩が敬遠される原因かもしれなくて、『エッセイが面白いから、詩も読んでみるか』くらいに、気軽に構えて下さると有難いですね」
文月氏は詩やエッセイを書く時も「予めプロットを練った上で、エピソードや言葉を再構成する」という。詩人とはいえ言葉がひとりでに降りてくるわけもない。だが世間はそう思わないらしく、飲み会などでは〈詩人、ここで一句!〉と無茶ブリされ、〈キャラから少しでも外れると「詩人のくせに」となじられるのだ〉。
が、〈理不尽な扱いを受けたら、その状況を楽しまなくては損だ〉と考えるのが文月流。中でも顕著なのが三章「セックスすれば詩が書けるのか問題」だろう。
ある時、〈あなたの朗読にはエロスが感じられないね。最近セックスしてる?〉とイベントの男性客から突然問われた氏は、〈関係ないと思いますけど〉と反論するが、〈あるね〉となおも持論を展開されてしまうのだ。
注目はその後だ。作者の恋愛経験と作品性には実際どんな関係があるのか。そもそも女らしさって何? 等々、いわゆるフェミニズム的な言葉遣いとは違う自分なりの言葉で、性別に関する諸問題を原点に立ち返って考えようとする。
「別に男性批判じゃないんです。彼がなぜそんなことをいったのか、という背景が知りたくて、理不尽な目に遭った以上はトコトン探求したい気持ちですね。なぜ女子だけが容姿で格付けされ、なぜ恋愛しろといわれてしまうのか。私は自分の中にある違和感を言葉にすることで、解き明かそうとしてきました。それが詩の形になったのは10歳の時。人に届く文章を書くことには、当時から意識的でした。
もちろんセクハラめいた質問に対して、その場で冷静に答えるのは難しい。でも後から文章にする際の客観性と、渦中でこそ感じる切実さの、2つの時間が本書には同居している。時間ってそういうものだし、人間は変化するからこそ、面白くも切なくもある存在だと思うんです」
詩は人と人を繋ぐこともできる
駅のジューススタンドで接客のバイトを始めた時の、小さな違和感。中学〜高校時代、〈スクールカースト〉の底辺から見た〈居場所〉を巡る闘いや、自らも翻弄された〈かわいい〉に関する考察。また人はなぜ〈自撮り〉にハマり、殻にこもりがちな自分がなぜ路上で詩を朗読したりアイドルオーディションに出たりしたのか。ことに彼女の関心は自分を彫刻する他者や外界との関係性に向けられる。
「確かにスマホやSNSがフツウにある時代に育った私たちは、人からどう思われるか、過剰に意識する傾向はあるかもしれない。でも今さらSNSがなくなるわけではないし、苛めも差別もある前提で折り合いをつける以外に、実質生きていく術はない。その方法の一つが私の場合は詩を書くことでした。私がプロットを作ると話すと驚く方がいるんですが、牛丼屋さんにだってレシピはあるでしょう(笑い)。プロとしてはその場の感性や閃きに頼らずに、いつ何時もおいしい牛丼、ならぬ、詩を提供する準備はしていたいなって」
実は人付き合いや恋愛にも臆病で、誰かと喫茶店へ行っても相手を慮り過ぎて「そろそろ帰ろう」と言い出せない彼女は、子供の頃、朝顔も満足に咲かせられなかった不器用な自分をずっとトラウマに感じてきたという。しかし今は違う。
〈相手が何を思い、何を感じているか、本当のところは永遠にわからない。でも自分がどう感じたか、それはよく知っている。喫茶店で相手に『出ますか』と告げられたら、次は率直にあの言葉を返そう〉〈ありがとう。とても楽しかったよ〉
「異性は今でも苦手ですし、そのくせオーディションや路上に出る私は、キャラが一貫してないとよくいわれる(笑い)。でもどの私も私というか、周囲が期待する役割を演じてお茶を濁したかと思うと、意外な自分に驚いたり、人間は誰しもそんなものなのかなって。
そういうことに一つ一つ、気づく過程を、どんなにイタくて滑稽でも、できるだけ誠実に綴りたいんです」
〈与えることを恐れなければ、きっと花は咲く〉と、自身の内や外にこわごわと手を伸ばし、「詩は人と人を繋ぐこともできる」と語る彼女は、〈詩人のくせに前向き〉だ。そして「詩は現象」とかつて看破したように、彼女はこれからも詩という生身の現象を生き、本書はその、ほんの途中に過ぎない。
●構成/橋本紀子
●撮影/内海裕之
(週刊ポスト2016年11.4号より)
初出:P+D MAGAZINE(2016/11/12)