【著者インタビュー】田中ひかる『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』/日本で三人目の公許女医の生涯を描く

荻野吟子、生澤久野に続いて、日本で三人目の公許女医となった高橋瑞の生涯を描いた小説仕立ての群像劇!

【ポスト・ブック・レビュー 著者に訊け!】

産婆では救えない命が「医師」ならば救える――日本での女医誕生へ道を拓いた
志高き女性の実録小説

『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』

中央公論新社 1800円+税
装丁/キガミッツ

田中ひかる

●たなか・ひかる 1970年東京生まれ。学習院大学法学部卒業後、高校や予備校の講師等を経て、専修大学大学院文学研究科修士課程で歴史学、横浜国立大学大学院環境情報学府博士課程で社会学を専攻。博士(学術)。女性に関するテーマを中心に、執筆・講演活動を行なっている。著書に、女性の年齢問題をテーマにした『「オバサン」はなぜ嫌われるか』、月経不浄視の歴史や生理用ナプキン誕生のドラマを描いた『生理用品の社会史』、『「毒婦」 和歌山カレー事件20年目の真実』等。158㌢、A型。

迷信や偏見の犠牲になった名もなき女性たちの無念を反映させたかった

 それは御一新とは名ばかりの封建的体質や前例至上主義、、、、、、に風穴を開ける、〈直談判〉の歴史でもあった。
 田中ひかる著『明治を生きた男装の女医 高橋瑞物語』は、荻野吟子、生澤久野に続く、日本で三人目の公許女医・高橋瑞の生涯を中心に、近代医制の歩みや時代の空気までも活写した、小説仕立ての群像劇である。
 著者・田中氏は『月経と犯罪』『生理用品の社会史』といった著作もあるように、女性が女性であるがゆえに社会的、歴史的にどう扱われてきたかが主な研究領域だ。その点、女性は医学校に入ることすら許されない中、相次ぐ陳情や直談判によって自ら道を切り開いた瑞たちの行動は、なるほど快挙以外の何物でもない。
 それにしてもなぜ一人目ではなく、三人目の女医をテーマにしたのか?

「えっ、こんな人がいたんだと驚くくらい、私には瑞の人生がピンポイントに面白かったんです。
 もちろん吟子や久野や、四人目の女医・本多銓子の人生もそれぞれ個性的なので、本書でも結構ページを割きました。でも特に瑞の場合は医者になってからの記録しかなく、なぜ三河出身の彼女が群馬にいたのかなど、前半生が謎だらけだったのです。
 そんな史料的に部分、、しか残っていない瑞の全体像や人間像を、今回はできれば若い人にも読んでほしいと思い、小説仕立てにしました。それこそ吟子は小説 (渡辺淳一『花埋み』)や映画(『一粒の麦』)にもなっているのに、瑞の場合は正式な記録のある功績すら、ほぼ知られていないので」
 高橋瑞は、嘉永5年、現在の愛知県西尾市生まれ。祖父は元西尾藩の兵学指南役、父も和漢の書に通じ、六男三女の末娘に〈瑞は利口だから学問をやるといい〉と目をかけた。だが、父の死後、長兄の家で家事や子守に追われる瑞は塾に通うことも許されず、没落した士族の娘には20歳を過ぎても縁談はなかった。
 やがて24歳で母を看取り、心おきなく家を出た瑞は、旅芸人一座の賄婦や東京・小石川の妾宅の女中などを転々とする。特に弟の学費を稼ぐために某政治家に囲われた前橋出身の絹子とは、故郷で教職に就く弟の嫁に望まれるほど信頼を築く。
「瑞の結婚相手に関しては、前橋の教師という説と車夫という説の2つあって、真相は今も謎なんです。
 ただし瑞が明治13年頃に前橋の高名な産婆、津久井磯子の下で修業していたことは記録が残っている。ではなぜ瑞が前橋にいたのかを説明しようとすると、夫が教師で絹子の弟だったという本書の筋立てが最もしっくりきました。しかし結局はその結婚もうまくいかず、当時〈中条さん〉とも呼ばれた堕胎薬を常用していた絹子の死をきっかけに瑞は家を出ます。そして磯子の援助を受けて浅草の産婆学校・紅杏塾に学び、産婆ではなく医師をめざすこの物語の端々に、迷信や偏見や誤った情報の犠牲になった名もなき女性たちの無念を、私は少しずつでも反映させたいと思いました。
 現に明治大正期の雑誌にはこの手のほとんど毒ともいえる堕胎薬の広告がよく載っていたほど、当時は避妊も堕胎も女性任せですし、出産も命がけでした。しかも絹子の言う〈産むも地獄、産まぬも地獄〉という言葉が今も別の形で生きているなど、これだけ医学が進んだのに何してるのよって、瑞たちもさぞ呆れていると思います」

各々が同じ志で頑張れば山は動く

 明治7年、政府は医療の近代化を図るべく〈医制〉を布達。同11年には全国で医術開業試験が行なわれるが、受験の前提となる医学校への入学自体が、女子には許されていなかった。
 紅杏塾で学べば学ぶほど、産婆ができうることの限界を痛感した瑞は、一度は前橋に戻って衛生指導に貢献するなどしたが、やはり医師の夢を諦められず、再び上京。そして紅杏塾の友人を伴って内務省に乗り込み、衛生局長・長与専斎に請願を試みるのだ。
「岩倉使節団として渡欧し、西洋医学を学んだ長与は、hygieneを衛生と訳し、日本に定着させた人物。彼が訪ねてきた瑞たちに言った〈ほかからも頼んできている〉〈時が至るのを待つのだ〉という台詞は、実際に史料に残っています。
 ここでいう『ほか』というのが吟子や久野や銓子たちだったんです。つまり医者を志した動機も育った環境もそれぞれ違う彼女たちが、ほぼ同時期にいろんなルートで『女にも試験を受けさせろ』と長与に頼んでいた。面白いですよね。長与は長与で、その頼みをその場しのぎであしらわないフェアな人物でした。また、来る日も来る日も校門脇に立っている瑞に根負けして入学を許す、湯島の済生学舎校長、長谷川泰にしても、彼女たちが真摯に夢を追ったからこそ、力を貸したのだと思います」
 だが入学早々、瑞は男子学生らに苛められる。それも教室で一斉に足を踏み鳴らされる、背中に落書きされる等々、子供じみた嫌がらせばかり。実は済生学舎では瑞以降、多くの女子学生を受け入れ、東京女子医大創設者・吉岡彌生を輩出するなど、〈女医の一般化〉に貢献するが、当初は抵抗も強かったのだ。
「瑞自身はさほど苦にしてなかったみたいですけどね。医学さえ学べれば身なりや寝食など、他のことは気にならない人のようでした」
 こうして瑞は明治20年、医術開業試験に合格。翌年には日本橋区元大工町に高橋医院を開き、軌道に乗せる。さらにその後、海外での入学条件もわからないまま、ドイツ行きの船に乗りベルリン大学に向かうのだ。
「その結果、ベルリン大学でさえも当時は女子は入学対象外だったことを現地で知ります。ですがここでも瑞は直談判で正面突破するんです(笑い)。私が彼女の人生から何より学んだのは、こんなに諦めなくていいんだということです。大抵、制度的な壁が立ちはだかったら、まあ、自分のせいじゃないし仕方ないかと、諦めてしまうと思うんです。でも瑞はそうしなかった。志を同じくする彼女たちが各々の場所で頑張ることで、何かしら山が動く様を見ると、〈人は群れずとも連帯できる〉と、私自身、教えられた気がするんです」
 何事にも初めてはあり、そこには不安や恐怖が必ず壁として立ちはだかる。だが、がむしゃらでまっしぐらな瑞の痛快な人生や突破力に、先の見えない時代を生きるヒントをまた一つ見た思いがした。

●構成/橋本紀子
●撮影/横田紋子

(週刊ポスト 2020年9.4号より)

初出:P+D MAGAZINE(2020/10/25)

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