5分で読めてクスっと笑える、“文豪のエッセイ”セレクション

文豪たちが日常生活の些細なこと、何気ないことを綴ったエッセイのなかには、思わずクスッと笑ってしまうような名作が数多くあります。太宰治や夢野久作といった小説家らによる、名作エッセイを紹介します。

学生時代、国語の教科書や学校の課題図書を通じて出会った“文豪”たちによる文章は、難しくて読みづらかった──という記憶を持っている方も多いのではないでしょうか。実際に、近現代に書かれた純文学小説は、テーマも文体も難解なものが少なくありません。

しかし、小説家たちが日常生活の些細なことを綴ったエッセイのなかには、読みやすく現代的で、おもしろい作品も多数存在します。今回は、文豪によるエッセイのなかでも、5分程度で読める長さで、思わずクスッと笑ってしまうようなチャーミングな文章を4作品紹介します。

里見弴は刺身にしたら、きっとうまいに違いない──『食物として』(芥川竜之介)


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『食物として』は、文豪・芥川竜之介が1927年、文壇情報誌である『文藝時報』に発表した短い随筆です。本作はそのタイトル通り、芥川がさまざまな文士たちを“食物として”見るというインパクト大の内容。わずか500字ほどの長さの随筆のため、ここで全文を紹介しましょう。

金沢の方言によれば「うまさうな」と云ふのは「肥つた」と云ふことである。例へば肥つた人を見ると、あの人はうまさうな人だなどとも云ふらしい。この方言は一寸ちょっと食人種の使ふ言葉じみてゐて愉快である。
僕はこの方言を思ひ出すたびに、自然と僕の友達を食物として、見るやうになつてゐる。
里見弴君などは皮造りの刺身にしたらば、きつと、うまいのに違ひない。菊池君も、あの鼻などを椎茸と一緒に煮てくへば、脂ぎつてゐて、うまいだらう。谷崎潤一郎君は西洋酒で煮てくへば飛び切りに、うまいことは確である。
北原白秋君のビフテキも、やはり、うまいのに違ひない。宇野浩二君がロオスト・ビフに適してゐることは、前にも何かの次手ついでに書いておいた。佐佐木茂索君は串に通して、白やきにするのに適してゐる。

“うまそうな”という金沢弁を皮切りに、里見弴、菊池寛、谷崎潤一郎といった文人たちの調理法を嬉々とした様子で提案していく芥川。菊池寛に関しては、「鼻を椎茸と一緒に煮て食うとうまい」と付け合わせまで指定する丹念さです。

随筆の最後は、このように締めくくられます。

室生犀星君はこれは──今僕の前に坐つてゐるから、甚だ相済まない気がするけれども──干物にして食ふより仕方がない。然し、室生君は、さだめしこの室生君自身の干物を珍重して食べることだらう。

目の前に座っている友人に対して「干物にして食うより仕方がない」と言い放ち、さらには「自分でも珍しがって食べることだろう」とまで分析する芥川に、室生犀星はきっと怖い思いをしたのではないでしょうか。

本作に限らず、芥川は文章のなかでしばしば人を食べ物にたとえています。もっとも有名なのは、のちに妻となる女性・塚本文に贈った手紙のなかの表現。芥川は塚本に対し、“この頃ボクは文ちやんがお菓子なら頭から食べてしまいたい位可愛い気がします”という恋文をしたためたことがあるのです。“食物として”形容することはもしかすると、芥川にとってごく親しい相手に対する最上級の愛情表現のひとつだったのかもしれません。

文豪流、「上京あるある」──『恐ろしい東京』(夢野久作)


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『恐ろしい東京』は、1937年、文芸誌『探偵春秋』に小説家・夢野久作が書き下ろした随筆です。

夢野は『ドグラ・マグラ』や『犬神博士』など、奇天烈で独特な世界観を持つ作品を多数発表した作家ですが、随筆においてはユーモアのセンスが惜しみなく発揮されています。本作は、田舎暮らしの夢野が久々に上京した際の戸惑いを綴った随筆ですが、現代人の私たちの目から見ても「あるある」と感じるような内容が詰まっています。

久し振りに上京するとマゴツク事や、吃驚させられる事ばかりで、だんだん恐ろしくなって来る。田舎にいると、これでも相当の東京通であるが、本場に乗り出すと豈計らんやで、皆から笑い草にされる事が多い。
横浜から出る電車は東京行ばかりと思って乗り込んで、澄まして新聞を読んでいるうちにフト気が付くと大森林の傍を通っているのでビックリした。モウ東京に着く頃だがハテ、何処の公園の中を通っているのか知らんと思って窓の外を覗いてみると単線になっているのでイヨイヨ狼狽した。車掌に聞いてみると八王子へ行くのだという。冗談じゃない。這々ほうほうの体で神奈川迄送り戻された。

随筆の冒頭で、自ら「これでも相当の東京通」と言い切る夢野。しかし、実際に上京してみると、電車の乗り換えを間違えて狼狽してしまいます。

山の手線電車が田町に停まったら、降りた人が入口を開け放しにして行って寒くてしようがないので、入口を閉めようとしたがナカナカ閉まらない。直ぐ傍に立っている喜多実君と坂元雪鳥君とであったかが腹を抱えて笑っている。理由がわからずマゴマゴしているうちに、自動開閉器で閉まって来た扉に突き飛ばされかけた。
この恨みは終生忘れまいと心に誓った。

さらには、当時まだ珍しかった電車の自動ドアに四苦八苦してしまい、文士仲間に笑われる始末。「この恨みは終生忘れまい」という力強い言葉も、さらなるトラブルの前フリのようにしか聞こえず、笑いを誘います。実際に夢野はこのあと、東京で次々とひどい目に遭い、心のなかで友人たちに“永遠の絶交”を申し渡した、という言葉でエピソードを締めくくっています。

夢野は、電線や電柱、ビルといった無機物に囲まれた東京を見て「恐ろしい」と感じ、

田舎の太陽や、樹木や、電車や、人間はみんな本物だがナアと思うと、急に田舎へ帰りたくなった。真黒に日に焼けた、泥だらけの子供の笑い顔が見たくて見たくてたまらなくなった。

と述懐します。自然に囲まれた地域の出身者にとっては、大いに共感できる感覚ではないでしょうか。本作はまるでコントのような読み味の随筆ですが、夢野らしい意外性のある展開とサービス精神が存分に感じられる名文です。

酒を飲むとそんなに反省しなくなって、とても助かる──『酒ぎらい』(太宰治)


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『酒ぎらい』は、太宰治による1940年発表の随筆。禁酒したいがついつい酒を飲んでしまうというジレンマについて、自虐的なユーモアを交えて綴った作品です。

二日つづけて酒を呑んだのである。おとといの晩と、きのうと、二日つづけて酒を呑んで、けさは仕事しなければならぬので早く起きて、台所へ顔を洗いに行き、ふと見ると、一升瓶が四本からになっている。二日で四升呑んだわけである。

……という冒頭部分からすでに、アクセル全開の太宰節を感じる方も多いのではないでしょうか。太宰はどうやら、客人が来るとソワソワして酒を飲まずにいられなくなってしまうようです。

よそから、もらったお酒が二升あった。私は、平常、家に酒を買って置くということは、きらいなのである。黄色く薄濁りした液体が一ぱいつまって在る一升瓶は、どうにも不潔な、卑猥な感じさえして、恥ずかしく、眼ざわりでならぬのである。台所の隅に、その一升瓶があるばっかりに、この狭い家全体が、どろりと濁って、甘酸っぱい、へんな匂いさえ感じられ、なんだか、うしろ暗い思いなのである。

友人が来たからと言って、何も、ことさらに酒を呑まなくても、よさそうなものであるが、どうも、いけない。私は、弱い男であるから、酒も呑まずに、まじめに対談していると、三十分くらいで、もう、へとへとになって、卑屈に、おどおどして来て、やりきれない思いをするのである。

平時は酒を家に置くことを毛嫌いしているものの、自分は「弱い男」だから、友人が来るとどうしても飲んでしまう、と太宰。酒を飲んでしまう理由を、彼は

酒を呑むと、気持を、ごまかすことができて、でたらめ言っても、そんなに内心、反省しなくなって、とても助かる。

と言い切ります。

屁理屈としか言いようのないはた迷惑な理論ですが、ここまで突き抜けた情けなさやくだらなさ、可愛らしさは、まさに太宰の随筆の真骨頂です。内容そのものは単なる長い言い訳でも、独自の文体とリズムが活きることで非常におもしろい文章になる、という好例です。

昔食べたサラダに入っていた「石鹸のかけら」の正体は──『サラダの謎』(中谷宇吉郎)


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『サラダの謎』は、随筆家・物理学者として活動し、世界で初めて人工雪の開発に成功した人物としても知られる中谷宇吉郎が1960年に発表した随筆です。中谷はこの随筆のなかで、昔食べたフランス風のサラダが忘れられないという、素朴で何気ないけれど、食欲をそそるような話をしています。

私はごく普通のフランス風のサラダが好きである。レタスとトマトを、酢とオリーブ油でドレスしただけの簡単なサラダのことである。洋食は、一般にいってあまり好かないが、このサラダだけは例外で、食卓に出ていると、つい先に手が出る。
ものの好き嫌いなどというものは、たいてい子供の頃か、せいぜい二十代までの生活環境できまるものらしい。私がこのサラダを好きになったのは、若い頃、もう三十年も昔のことであるが、ロンドンに留学していた頃に、下宿で毎晩非常にうまいサラダを食わされたのが、今日まで後をひいているようである。

留学当時、下宿先の夫人がよく作ってくれていたサラダが非常においしかったと中谷は言います。しかし唯一、その記憶に関して長年気にかかっていることがありました。それは、夫人がサラダに入れていた、「謎」のものの正体です。

不思議だったのは、レタスを木鉢に一杯入れたあと、何か石鹸のかけらみたようなものを、パンの切れはしにこすりつけて、それをサラダの中に入れたことであった。そういえば、毎晩の食卓で、サラダ鉢の中に、パンの切れはしがはいっていたが、これは皿にはつけないものであった。何かあのおまじないが、サラダをおいしくするこつのように思われて仕方がなかった。しかし男が料理のことなどきくものではないと思っていたので、別にたずねてもみなかった。

その後、日本へ帰って、北海道で家をもってみたら、毎日の食事が問題になってきた。(中略)当時の札幌は案外ハイカラな街であったらしく、ヴィネガーもオリーブ油も、簡単に手にはいった。
それで待望のサラダがつくられたわけであるが、食べてみると、どうも昔の味がしない。材料は全部同じもので、別に煮たきするわけでもないのに、味がまるで違っている。ヴィネガーと油と塩と辛子とを、いろいろ分量をかえてみても、やはり駄目である。

「あの石鹸のようなものに、なにか特別な味のポイントがあるに違いない」と推理する中谷。私たち読者の目から見れば、それは切ったにんにくであることは明白なのですが、中谷はこの「謎」になんと30年近くも悩まされていたと語ります。

さまざまな国の食べ物を気軽に食べられるようになった現代でも、未知の食べ物に対する期待と戸惑いというのはさほど変わらないものです。外国の料理のおいしそうな描写が楽しめるのはもちろん、「正体のわからないものを食べている」という不思議なおもしろさを味わうことのできる名エッセイです。

おわりに

今回ご紹介した4作のエッセイは、どれも非日常的な体験や珍しい体験について綴っているわけではなく、ごくふつうの毎日を描写したものばかりです。文豪たちのこのようなエッセイは、なんら突飛なことをしなくても、切り取り方によっては日常生活はおもしろさに溢れているということを思い出させてくれます。

これらのエッセイをきっかけにもっと文豪たちの作品を読んでみたくなった方は、それぞれの随筆集や評論集などにも、ぜひ手を伸ばしてみてください。気難しいと思っていた文豪たちの気さくな一面が覗けるかもしれません。

初出:P+D MAGAZINE(2021/12/27)

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