実写映画が公開。『羊と鋼の森』の魅力に迫る。
『君の膵臓をたべたい』、『火花』をはじめとする候補作を抑え、第13回本屋大賞を受賞した『羊と鋼の森』。「本から音が聴こえる」と思わせるほど美しく、上質な表現が魅力の今作は、2018年6月8日に実写映画も公開。タイトルの由来や、作中のキーワードを解説します!
森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い
『君の膵臓をたべたい』、『火花』をはじめとする候補作を抑え、第13回本屋大賞を受賞した『羊と鋼の森』。ピアノの調律師との偶然の出会いをきっかけに、自らも調律師の道を歩み始める青年、外村の姿を繊細な文章で描いた今作は多くの人に静かな感動を与えました。
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そんな『羊と鋼の森』の実写映画が、2018年6月8日に公開となります。調律師という職業に向き合って成長していく外村を演じるのは、人気俳優の山﨑賢人。その他にも三浦友和や鈴木亮平をはじめとする豪華キャストの出演や、久石譲がエンディングテーマを作曲・編曲、辻井伸行が演奏を担当することが発表されています。
作品の随所には、「本から音が聴こえる」と思わせるほど美しく、上質な表現が見られます。今回は、そんな『羊と鋼の森』の魅力を紹介します。
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『羊と鋼の森』に込められた意味。
『羊と鋼の森』というタイトルは、外村が初めてピアノの調律を目にした場面に由来します。
「良い草を食べて育ったいい羊のいい毛を贅沢に使ってフェルトをつくっていたんですね。今じゃこんなにいいハンマーはつくれません」
何の話だかわからなかった。
「ハンマーってピアノと関係があるんですか」
僕が聞くと、その人は僕を見た。少し笑っているような顔でうなずいて、
「ピアノの中にハンマーがあるんです」
高校にやってきたピアノ調律師の板鳥から、外村はピアノの音が鳴る仕組みを教えられます。羊の毛で出来ているフェルトで作ったハンマーが鋼の弦を叩き、音が出ることを知った外村。雪深い森の風景をピアノの音に感じた彼は、ピアノに「羊と鋼の森」というイメージを抱きます。
作者の宮下奈都は、かつてラジオ番組「〜JK RADIO〜TOKYO UNITED」において、自宅にやってきた調律師の「このピアノにはいい羊がいる」という言葉がこの作品の原点だと語っています。外村と同じく、ピアノの中に羊の毛が使われていることに興味を持ったからこそ、この美しい物語が生まれたのです。
作中のキーワード、とある文豪の残した「憧れの文体」。
ピアノの調律に強く惹かれた外村は、板鳥へ弟子入りを志願します。しかし、板鳥は「調律の勉強がしたいのなら、この学校がいいでしょう」と調律師になるための専門学校を紹介するだけでした。板鳥から紹介された学校で経験を積み、調律師となった外村は、板鳥の働く楽器店へ就職することが決まります。
入社して5ヶ月が経った頃、外村は先輩調律師・柳に同行して初めての調律に向かいます。そこで外村が出会ったのは、双子の姉妹である和音と由仁でした。彼女たちは顔こそそっくりでしたが、ピアノの演奏は正反対。端正で整った和音の演奏と、勢いと彩りが特徴的な由仁の演奏に感動した外村は、その後もふたりの調律に関わっていくことになります。
外村は初めてひとりで調律を行ったとき、大きな失敗をしてしまいます。落ち込む外村に板鳥は、自分が目指すべき音の話をします。それは、小説家・原民喜が憧れの文章を述べた随筆からの引用でした。
この随筆は、原が、堀辰雄から作品を送ってもらったことについての言及から始まります。堀の美しい文章を“荒涼としたなかに咲いてゐる花のやうにおもはれた”と絶賛する原は、自分の憧れている文体を考えます。
明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えてゐるやうでありながら、きびしく深いものを湛へてゐる文体、夢のやうに美しいが現実のやうにたしかな文体……私はこんな文体に憧れてゐる。だが結局、文体はそれをつくりだす心の反映でしかないのだらう。
原民喜『砂漠の花』より
外村は「明るく静かに澄んで懐しい文体、少しは甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている文体、夢のように美しいが現実のようにたしかな文体」という表現こそ、板鳥の作り出す音そのものであることに気がつきます。それは、自分が調律師に憧れて、目指そうとした音でもありました。
なかなか思うように調律ができない状況に焦りを感じていた外村でしたが、憧れの存在である板鳥の目標と、板鳥からプレゼントされた“チューニングハンマー”を励みに努力を重ねることを決意するのでした。
チーズ、ゆで卵、ワイン……先輩調律師たちによる、音の表現。
調律師を目指すまで、ピアノに関する知識がほぼなかった外村。演奏したことも、クラシック音楽を聴いたこともなかったため、毎晩ピアノの演奏曲を聴きながら眠り、ピアノの音に関する感覚を得ようとします。そんな外村に対し、先輩調律師たちはあらゆるたとえ話を使って音のイメージを伝えようとします。
「でもさ、外村、お客さんにチーズみたいな音に調律してくださいって言われたらどうする」
足を止めて、柳さんを見た。
「まずは、チーズの種類を確認します。ナチュラルか、プロセスか。それから熟成の具合を尋ねると思います」
色や、匂いや、やわらかさ、もちろん味も、発酵と熟成の具合によってある程度想像できる。そこから音をたぐっていくのはどうだろう。
「蒸したアスパラガスに添えるのは、温泉卵に近いようなとろとろのゆで卵がいい。それをソースのようにからめて食べるとおいしい。だろ? お客さんはそれを食べたことがあって、その上で尚、かたゆでがいいと言っているのか、もしくは、ゆですぎた卵しか知らなくてかたゆでがいいと言っているのか、その辺の見極めが難しいんだ」
「チーズ」や「ゆで卵」のイメージは、人によります。柳に同行しながらさまざまな客先をまわるようになった外村は、相手の言葉から最適な音をとらえ、具現化する難しさを教わります。
依頼者の言葉をもとに求められる音に合わせる柳は、依頼者とのコミュニケーションを重視し、会話から希望の音を分析するタイプでした。
一方で、同じ楽器店で働く調律師、秋野はある程度の型をもって一律の調律をするタイプです。
「注文にも型があるじゃない」
結局は型通りの注文しかされないということだろうか。そういう注文しかされたことがないのは、つまらないことのような気がした。
「たとえばさ、ワインの香りや味を表現するときの型みたいな」(中略)
「ワインの馥郁たる芳香だとか、雨上がりのキノコのような香りだとか、ビロードのようになめらかなテクスチャーだとか」
僕は曖昧にうなずいた。
「そういう形容の型みたいなものがあるんだよ。調律も似てる。お客さんとのやりとりの中で使う言葉には型がある」
相手に合わせず、一律の調律を行う秋野には、かつてピアニストを目指していた過去がありました。「コンサートホールではなく、一般家庭であれば高い精度のものを求められていないし、やったところで弾きこなすことができない」と知っていたからこそ、秋野は型に沿った調律を行っていたのです。
相手が求める音を探るのか、相手のレベルに合った音を調律するのか……先輩の仕事を見ながら、外村は調律師の仕事を通じて成長し続けていきます。
美しいピアノの旋律が楽しめる実写映画。
華やかなピアニストの演奏を支える調律師。「調律に正解はない」と実感しながらも、美しい音を目指して成長していく外村の姿に読者は励まされるはず。
実写映画ではショパンの「子犬のワルツ」のほか、ラヴェルの「水の戯れ」など有名なピアノ曲が数多く使われることも発表されています。小説とはまた別の形で楽しめ、五感を刺激する演奏の表現は、作品にさらなる彩りを加えることでしょう。
外村が追い求める音がどのように描かれるのか、今から実写映画の公開が待ち遠しいですね。
初出:P+D MAGAZINE(2018/06/10)