『つかこうへい正伝1968ー1982』

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70年代の〝つかブーム〟を共にした著者が綴る唯一無二の評伝

『つかこうへい正伝1968-1982』

つかこうへい

新潮社 3000円+税

装丁/新潮社装幀室

長谷川康夫

※著者_長谷川康夫

●はせがわ・やすお 1953年札幌生まれ。早稲田大学政治経済学部在学中、劇団「暫」入団。『いつも心に太陽を』『広島に原爆を落とす日』『初級革命講座飛龍伝』『蒲田行進曲』等、一連のつか作品に出演。82年の劇団つかこうへい事務所解散後は劇作家、脚本家として活躍し、05年の映画『亡国のイージス』で日本アカデミー賞優秀脚本賞。近年の脚本作品に『聯合艦隊司令官 山本五十六』『柘榴坂の仇討』『起終点駅 ターミナル』等。174㌢、62㌔、AB型。

 

つか作品の逆説的で矛盾した世界を

観客も享受した時代が確かにあった

本人でも、遺族でもない第三者が、「正伝」を謳える根拠は何か。それは著者・長谷川康夫氏が、劇団草創期のつかこうへいと、長く日常を共にしていたからだ。

「僕というより僕ら劇団員が、ですね。当時はホント、毎日みんなで一緒にいすぎて、逆に印象にないくらいそれが日常だった。特に平田(満)なんて、一時期、六畳一間につかさんと同居しながら、ほとんど何も憶えてないんだから(笑い)」

表題にはつかが大学に入学した68年から、劇団つかこうへい事務所の解散公演『蒲田行進曲』をもって皆が散り散りになる82年まで、現在脚本家として活躍する著者が役者としてつかに接した期間が律儀にも付記される。ただでさえ毀誉褒貶に彩られた対象を、安易な憶測や感傷によって上げも下げもしたくないという誠意もあろうが、何より彼らにとってはその時期のつかこそが、正しいつかこうへいなのだ。

2010年7月12日未明。突如唸り出した携帯電話に長谷川氏は嫌な予感を覚える。つかが肺癌を公表し、自分からは電話できずにいたさなかのことだ。〈連絡してくるのは一方的につかさんで、僕はただ待っているだけだった。そして何か指示されれば無条件で受け入れてきた。それがどれだけ理不尽な要求であっても〉

「相当わかりにくい関係ですよね。師匠と弟子というわけでもないし、つかさんの駒というのとも違う。僕らはつかさんに期待される風間杜夫や平田満や石丸謙二郎や長谷川康夫を演じていたし、つかさんはつかさんで僕らの前では完全に銀ちゃんなんです。その関係をお互いに楽しんでもいたし、誰が誰にどう思われるか、もっと言えばどう思われたいかが、つかドラマの核心でもありました」

その外連味の一例が81年刊行のエッセイ巻末に載る「自作年譜」だ。つかこと本名・金原峰雄は昭和23年、戦前に韓国から日本に渡り、鉄鋼業やホテル業を営んだ金原家の次男として福岡県嘉穂郡嘉穂町牛隈に誕生。と、さすがにこれは事実らしいが、実はこの年譜自体、当時つかの執筆を手伝った長谷川氏らが〈つかの“口立て”を受け、でっち上げたもの〉というから驚く。

「口立てというのは、例えばつかさんが口にした台詞に僕らが反応することで、全く違う展開が生まれたり、〈音〉をやり取りしながら芝居を作っていくんですね。つまり僕らはつか脳を構成する細胞で、たとえホラ話でも面白い方を取って煙に巻くのが、つか流でした」

そのつかが珍しく自身の作劇を分析した文章が残っている。慶大文学部進学後、彼は『三田詩人』で初めてつか・こうへいを名乗り、劇団「仮面舞台」を結成するが、その公演パンフレットにこう書くのだ。

〈煙草屋で八十円出す。煙草屋のおばさんはハイライト一つだけ出す。そこには何もコミュニケートは無い訳ですよ〉〈現代人にとって一番恐ろしいのは無視される事であり、無視された時点で、一万円札を持って一日に二、三度ハイライト一ケづつ買いに行くような行動に出る〉〈僕の演劇の一つのパターンはその奇妙な行動?に出た時の寂しさを裏がえしにすることです〉

「僕らには他者に意識されて初めて存在を確認できるというその主題がよくわかるし、それが例えば国籍の問題と関係あるかというと、本人が特に気にするそぶりは見せなかった以上、関係ないんですね。むしろ直木賞を逃して何日も引きこもったかと思うと受賞したらしたで大はしゃぎしたり、極端に寂しがり屋で人恋しい人だったんじゃないかな。

つかさんは僕らがいつも自分抜きで楽しく飲んでるのも薄々察していたらしく、僕らがよく行く店に珍しく顔を出した時なんか、いきなりテーブルを蹴飛ばして、何も言わずに帰っちゃった。本当は自分も仲間に入りたかったのかなって、今からでも謝りたい気分です」

1人ワイドショー

みたいな人だった

ちなみに『蒲田行進曲』のヤスは長谷川氏のヤスでもある。72年に戯曲『戦争で死ねなかったお父さんのために』で注目され、早稲田小劇場や学生劇団「暫」でも活動を始めたつかと、長谷川氏は浪人時代に出会い、早大進学後は暫に入団。後のつか劇団を担う三浦洋一や平田らと出会い、『初級革命講座飛龍伝』や『熱海殺人事件』、『ストリッパー物語』等をいかに作り、演じたかを、本書では元団員の証言を元に再現する。

「当時はビデオもないし、記録がほとんど残ってないんですね。世間では“つか以前/以後”とも言われた芝居がこのまま消えていいはずはないのに、つかさんへの追悼文も活動再開後の『飛龍伝』とか、つか以降に関するものばかりだった。例えば根岸季衣がどれほど『蒲田』の完成度を高める上で重要な女優だったかとか、本当はそっちが核心のはずなんですけどね……」

常々〈逆説の人〉と評されたつかではあるが、通常なら逆接で結ばれる要素が、「残酷だから優しい」「だから真」「建前だから本音」等々、むしろ順接で結ばれるのがつかの芝居であり、彼自身の生き方でもあった。

「つくづくそう思います。特に初期の作品は『熱海』=正しい犯人のなり方とか、ほぼ〈正しい○○の○○方〉で説明がつく。正しいからこそ滑稽でやりきれなかったり、殴った方にドラマを見るのが、つか作品だった。

つかさん自身、わざわざ暴言を吐いて本音の人だと思われることが建前になってもいたし、団員の家族の話や恋愛沙汰が大好きで、ゴタゴタはもっと大好物な、1人ワイドショーみたいな人だった(笑い)。晩年こそ一元的にわかりやすく割り切った感じもあるけど、その逆説的で矛盾した世界を観客もまた享受した時代があったのは確かなんです」

その後もつかの周りには加藤健一、柄本明といった才能が次々に参集し、時代と才能の共犯関係をこれほど感じさせる劇団史もない。

「僕自身、あの時、あいつに会わなければということの連続で、全ては〈必然〉だったとしか言い様がない。

でもそれは僕らに限らず、今もいろんな場所で起きているはずで、だから面白いんだな、人生はって、つかさんなら言うと思います」

人懐こいかと思うと冷たく突き放し、あえて人恋しさと格闘するような日常を、少なくとも共有する仲間が彼にはいた。〈面倒〉をかけてはかけられ、〈傷つくことだけ上手になって〉、それでもお互い様で生きる人間の真実を、私たちもつかから学んだ教え子の一人なのだ。

□●構成/橋本紀子

●撮影/国府田利光

(週刊ポスト2016年1/29号より)

初出:P+D MAGAZINE(2016/01/25)

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