『イグアナの娘』ほか 愛憎渦巻く母娘小説おすすめ4選

母と娘。その愛憎渦巻く、一筋縄ではいかない関係は、小説や漫画で多く描かれてきました。そんな、古くて新しい母娘問題をテーマにした女性作家の作品4選を紹介します。

九段理江『School Girl』小説を読むのは非生産的だというZ世代の娘への母の返答は


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 母と娘の世代間格差を取り上げた、第166回芥川賞候補作です。著者は、2021年、『悪い音楽』にて第126回文學界新人賞を受賞した九段理江。
「私」は、14歳の娘の母。功利主義、利他主義、現実主義を標榜する典型的なZ世代の娘は、環境活動家の少女・グレタに感化され、肉食はせず、環境負荷の低い服を身に着けるストイックぶりで、親世代が残してきたツケを払わされるのは自分たちの世代だという怨嗟を持っており、社会意識が低く、自分の狭い世界に閉じこもって小説を読むことが好きな専業主婦の「私」をみくびっています。お小遣いをすぐに寄付してしまう娘に対し、「パパの会社が寄付をしているから、あなたはしなくて大丈夫」と言っても、「パパの会社の寄付金の行き先がどこかも知らずに呑気なことを言っている」と冷笑に付す娘。「私」は、自分が14歳だった頃よりずっと世の中のことを考えていると感心しながらも、娘とどう接していいか当惑しています。毎日顔を合わせていても腹を割って話すことができず、娘の考えは、彼女がアップしているYouTube動画を通じてしか知りえません。「私」はある日、娘からこんなことを言われます。

「お母さん、今は、小説の話なんかしてる場合じゃないんだよ。なんでニュースを見ないの? 自分には関係ないことだと思っているから? どうしてそんなに世の中に対して無関心でいられるの? お母さんは、たとえ明日から戦争が始まるという日でも、そうやって小説の話をするつもりなの?」

母はこう答えます。

「こういうことで合っている? 今、現実ではとてもひどいことが起こっていて、苦しんでいる人がたくさんいる。小説やフィクションで現実逃避している場合ではない。テレビをつけてニュースを見て、現実と向き合うべき、ということでいいの? でも、どんなニュースだろうとドキュメンタリーだろうと、それが小さな説である点では、小説とたいして変わらないんじゃないの?」

そもそも、「小説」の語源は、古代中国の君子が国家の政治思想について記した「大説」に対して、取るに足らない噂話や空想話、という説もあります。しかし、「私」は、現実を正確に切り取っているはずのニュースも「小説」の一種に過ぎないと説きます。“「大説」は、戦時中の日本がそうであったように時代の趨勢によって容易く覆るが、例えば、約百年前に書かれた太宰治の小説『女生徒』は、今の女子学生が読んでも共感できる普遍的な内容だ”、とも述べています。
『女生徒』を読んだ娘は、作品中で最も多く出てくる言葉が、「お母さん」であることに気づき、自分の中にも、母へ反発しながらも母を乞う気持ちがあることに思い当たります。
 芥川賞受賞は逃したものの、選考委員の島田雅彦、平野啓一郎、松浦寿ひさは本作を高く評価しています。(文藝春秋2022年3月号より)

村山由佳『放蕩ほうとう記』毒母を愛せない自分を責めないで。人気作家による半自叙伝


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 母との葛藤を実話をもとに赤裸々に描いた小説です。著者は、2003年、『星々の舟』で第129回直木賞を受賞した村山由佳です。
 なつは38歳の作家。母と不仲であることを編集者に話すと、「作家にとって同性の親との確執は鉱脈だから、書かねばならない」と言われます。娘の作品にはすべて目を通す母の手前、書くことが憚られた夏帆ですが、母が認知症になったのを機に執筆を決意します。
 戦前に女学校を出た母・美紀子は、娘が作家になれたのは自分の血筋と教育の賜物で、自分も若い頃に戦争さえなければ作家になっていた、と百回したような話を繰り返します。高齢の母のこうした話を、微笑ましいものとして聞いてあげるのが孝行娘ということは分かっていても、夏帆にはそれができません。それどころか、娘の成功を自分の手柄のように近所の人に吹聴していることを知ったときは、母特有の、謙遜に見せかけた巧妙な自慢の手口が目に浮かぶようで、憎悪を募らせます。
 夏帆が母に醒めた眼差しを向けるには、それなりの軋轢あつれきがありました。しつけ範疇はんちゅうを越えた精神的虐待です。美紀子は娘の性に対して潔癖で、女の子らしい恰好は一切させず、リカちゃん人形の着せ替えごっこを「いやらしい」と罵倒し、幼い娘が自慰の意味もよく分からないまま股に触っただけのことで、「その脚を切ってもらう」と医者に電話をかけたりします。そうかと思えば、父が浮気相手のところで妙な性技を仕込まれてきたと、10代の娘相手にあけすけに愚痴るなど、支離滅裂。金銭面でも、私立女子校へ行かせる余裕はあるのに、私立の友達付き合いをするだけの小遣いは断固与えません。そして、夏帆の一時の性的な奔放さや万引きへの衝動といった「放蕩」は、母の抑圧と無関係ではないようです。
 夏帆は、母への思いを皮肉っぽく吐露します。

「今現在の私がどうしようもなく抱いてる性的な欲求へのうしろめたさは、あのへんからつながっている気がしてしょうがないの。あらかじめ、悪いことだって刷り込まれたからね。でもその一方で、私の中にもともとあった書くための力と、小さな発見を大きな感動として受けとめる力を伸ばしてくれたのは、紛れもなくあの母なんだよね。(中略)こういうのってほら、いちいち苦しいなんて言ったら笑われちゃうくらい、あまりにもありがちな苦しみじゃない? この程度の屈託を自分の物書きとしての核のひとつだなんて認めること自体、ほんとはイヤでたまらないんだけど――でも、生い立ちとか経験談としてはありがちでも、私の中の母への〈ゆるせなさ〉の度合いはやっぱり尋常じゃないわけだし。そこから合わせ鏡みたいに派生してきた自意識の過剰さみたいなものが、私を創作に向かわせる原動力のひとつであることを思ったら、やっぱりあの母親には感謝しなくちゃいけないのかもしれないよね」

 母が認知症になり弱ったからといって、母へのいたわりの気持ちはわいてこず、そのことに自責の念を覚える夏帆。そんな夏帆に兄はこう言います。
 

「おふくろは、お前のこと、娘っていうより、まるで女どうし張り合わなきゃいけないライバルみたいな感じでさ。そういうとこは、ぜんぜん母親じゃなかった。だからさ。しょうがないよ。お前は、自分を責めなくていいよ」

 著者は、2016年11月6日、東京大学で開催されたオープン講座「人生に、文学を」(YouTubeで視聴可能)で、本作が毒親からのモラハラに悩んでいる人の救いになれば、と語っています。

萩尾望都もと『イグアナの娘』娘を可愛いと思えない母の焦燥とは


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 娘を受け入れることができない母の苦しみを描いた漫画で、作者は、2012年、少女漫画家として初の紫綬褒章を受賞した萩尾望都です。
 ゆりこは、女児を出産したばかり。生まれたての赤ん坊と対面したとき、その見た目が、動物のイグアナのようにしか見えないことに衝撃を受けます。助産師が「最初はみんな猿みたいなもので、すぐにかわいくなる」と諭しても、夫が単なるマタニティブルーとして一笑に付しても、娘が成長するにつれ、そのしゃがれた声や地黒で大きな口、離れた目、がにまたの足などが、とうてい人間の女の子に見えず、パニックを起こします。ゆりこはその後、次女を出産するのですが、こちらは可愛い女の子に見えるのです。姉妹が並んだ写真を見て、ゆりこは嘆息します。

「いつも不思議だわ。写真には(長女も)人間に写るのにね。夫やまわりの人にはこう見えるのね。あたしの目に見えるのはあの子の本性なの……?」

 本作で描かれるイグアナの姿をした娘は、母にとっての異物としての娘の暗喩でしょう。母親はしばしば娘を自分の分身のように考えがちだと言われますが、本来は、相容れない他者性を持っているものなのかもしれません。また、子どもが可愛いと思えない、というのは、口にするのはタブーですが、それほど珍しい感情ではないのではないでしょうか。例えば、エッセイストの酒井順子は少子化が進む原因を探った著書『少子』において、子どもを産まない女性のなかには、自分が産んだ子を愛せないかもしれないからという偽らざる本音があるのでは、と分析しています。
 昔話としての異常誕生譚「田螺たにし息子」は、田螺の息子を授かった夫婦が、これを大切に育てたところ、驚異的な親孝行をするという致富譚ですが、『イグアナの娘』の場合、母・ゆりこは、最終的には、「イグアナの娘」を受容できるでしょうか。

唯川恵『啼かない鳥は空に溺れる』昨今多い女子のマザコン。母と娘の共依存関係を問う


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 唯川恵は、2001年、『肩ごしの恋人』で、第126回直木賞を受賞した作家で、本作は、一見仲良し母娘に見える関係に潜んだ問題をあぶりだした小説です。
 亜沙子は、幼い頃父を亡くし、母子家庭で育った27歳。再婚せず、女手ひとつで育ててくれた母に親孝行したいという気持ちが強く、恋人ができても、優先順位の1番は母親で、恋愛が長続きしません。ある日、亜沙子は、母のブログを目にします。すると、そこには、娘がいつまでも親離れできなくて心配、と書かれていました。亜沙子にすれば、子離れできないのは母の方だと思っていたので心外ですが、確かに、母といるのが最も気楽というのは本心です。亜沙子の同僚で、やはり母と仲良しの女性は、

「マザコンだ相互依存だとか言う人もいるけど、別にいいの。だって私が一番心地いいって思えるんだもの。余計なお世話よね。」

と居直っている人もいるくらいで、

母と娘とは、身体のどこも繋がっていないシャム双生児なのかもしれない。鬱陶しくもあり、反発もあり、同時にいちばんの理解者であり、心の拠り所でもある。

という一文に、共感する読者も多いでしょう。
亜沙子は、娘の将来を心配する母から見合い話を持ってこられます。相手は堅い仕事に就く大人しい男性なのですが、付き合うなかで、彼のパソコンに大量の幼女のわいせつな写真があるのを発見します。しかし、一心同体の母が薦める相手だけに、母に本当のことを言って傷つけることを恐れています。亜沙子は、ある人の言葉、「母親って、娘の幸せを望んでいるようなことを言っておいて、本心では、自分の思うまま操りたいって気持ちがある」という言葉を聞き、自分と母の共依存関係に思い至ります。

母と娘の関係は、近すぎても遠すぎても、胸の中に収まりきらない葛藤がある。愛して欲しい、解放して欲しい。その相反する感情は、同時に根底で繋がっている。

 作家の吉本ばななは、「親は多かれ少なかれ子どもによくない影響を与えるものだ」と言っています(『吉本ばななが友だちの悩みについてこたえる』より)が、亜沙子の母も、よかれと思って娘のためにやっていることが悪影響となっている例です。亜沙子は母からの真の自立をすることができるでしょうか。

おわりに

母と娘。この抜き差しならない関係において、愛することと憎しむことは不可分なのかもしれません。現在母である人も娘である人も、あるいは、かつて誰かの娘であった人も、身につまされ、自分の母娘関係を顧みるきっかけとなる内容が満載なこれらの作品をぜひ読んでみてください。

初出:P+D MAGAZINE(2022/06/23)

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