【第166回芥川賞受賞】小説家・砂川文次のおすすめ作品

小説『ブラックボックス』で第166回芥川賞を受賞した砂川文次。砂川は、極限状態に置かれた人の心理を、リアリティのある硬質な文体で綴る作家です。今回は、そんな砂川文次のおすすめ作品を紹介します。

2022年1月、小説『ブラックボックス』で第166回芥川賞を受賞した砂川文次。元自衛官・現公務員という異色の経歴を持つ砂川は、リアリティある戦場の様子や、システムや規則に飲まれていく現代人の閉塞感を描くことを得意とする作家です。

今回は、芥川賞受賞作『ブラックボックス』を中心に、砂川文次のおすすめ作品を紹介します。

『ブラックボックス』


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/B09P3D557Y/

『ブラックボックス』は、砂川文次が2021年に発表した小説です。砂川はこれまでにも『戦場のレビヤタン』が第160回芥川候補作、『小隊』が第164回芥川賞候補作となっていましたが、本作で第166回(2021年下半期)芥川賞を見事受賞し、話題を集めました。

本作は、自転車便のメッセンジャーであるサクマという男を主人公にした物語です。サクマは非正規雇用で職を転々としながらも、メッセンジャーとしての自分の腕には自信を持っていました。

自転車便は時間で料金が変わる。料金が変われば自分の取り分も変わる。時間が短い便ほど単価が高い。そしてこういう仕事は遅いやつにはできない。急ぎの仕事を受ければ稼げる、のではなく速いからこそ急ぎの仕事を任されるのだ。サクマは自他ともに認める、速くて稼げる方のメッセンジャーだった。

しかし同時に、サクマはいつも、非常に不安定な精神状態にありました。身ひとつで荷物を届けるメッセンジャーという仕事が常に事故の危険と隣合わせであることに加え、サクマには昔から、自分でも抑えられない突発的な暴力衝動が湧き上がってくることがあったのです。

やめろ、と思うも感情は言うことを聞かなかった。
学校生活の我慢と忍耐の日々は感情の暴発で幕を閉じた。ただの喧嘩といえば喧嘩だった。人によっては若気の至りとか青春とかいって美談にするかもしれない。でもサクマは違った。それまで我慢し続けていたことを勇気を振り絞って止めてみると、我慢していたこと自体がバカバカしく感ぜられて、学校なんかは行かなければいけないところから行っても行かなくてもいいところに変わった。

「よせばいいのに」と後になって思うことは多々ある。だけれども、大抵の場合抑えが利かないのだ。頭の中で何かが白くぱっときらめき、気が付くと口か手が出ている。暴発する度にそのハードルが低くなっている気がした。誰かを殴るのに、思い出せないけど一番初めはきっとすごい緊張を伴ったはずだ。殴ったり殴られたりする回数分、自分のネジがゆるんでどこかに飛んでいく。次にそれをやるとき、最初の緊張はもうない。

本作で描かれるのは、サクマがこの衝動を捨てられない自分を自覚しながらも、どうにかそれを飼いならし、生きていこうと考えるようになるまでの過程です。一人称で綴られるサクマの主観や行動は多くの読者にとって、なかなか共感・共鳴できるものではないはずです。しかし、どれだけ否定してもなお消すことのできない人の醜悪さや、それに伴う自己嫌悪を真正面から描いた本作は、社会の中でスポットを当てられることはないけれど、確かに存在している人間の心の闇をえぐり出しています。

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『小隊』


出典:https://www.amazon.co.jp/dp/B08VZDFVNJ/

『小隊』は、第164回(2020年下半期)芥川賞の候補にもなった短編小説です。本作は、砂川の得意とする戦場のリアリティある描写を存分に味わうことのできる軍事小説となっています。

主人公は、自衛隊の小隊長の安達。現代の北海道を舞台に、ロシア軍の侵攻を受けて戦闘の最前線に立たなければならなくなった自衛隊員たちの姿が描かれます。

安達は始め、第二次世界大戦の終戦から70年以上が経った現代において、本当に戦争が始まるということを現実的な問題としてどこか受け止められずにいます。

「あんたら、本当に戦うの?」
幸いにして、話題はまたしても相手からもたらされた。
第5戦車隊第1中隊の配属を受けた第27連隊改め第27戦闘団は、2コ中隊を並列、1コ中隊を重畳に配置して104から114に至る間を戦闘地域として、字別保一帯の間に陣地防御し、ある期間まで敵の侵攻を阻止し、第5旅団の進出を援護する任務を受けていたが、ロシア軍の動向が一切分からなかったので、一番重要な<時期>が未だ決まっていなかった。初めのうちこそ、確かに緊張感があった。一日、十日と過ぎるうちに、部隊も国も、敵さえも何がしたいのか皆目見当もつかなくなり、ただ時間だけが無為に過ぎた。だからこの質問に対する答えは当然のことながら持ちえない。
「どうでしょう、命じられれば」
歯切れのわるい答えだ、と自分でも思う。

しかし、そんな安達の思いをよそに、戦争は着々と始まり、進行していきます。物語の後半では、本格的な戦闘に巻き込まれた安達が、無我夢中で命を守り、敵を攻撃しようとする様子が描かれています。

安達は無意識のうちに小銃を抱え込んだ。小隊陣地の最右翼から、橙色の光が、音もなくぱっと広がった。音は、遅れてやってきた。対戦車ミサイル手たる柿崎2曹の放ったミサイルであることは、幾度となく計画と作戦図とを見比べている自分が一番よく承知している。発射音、というよりも、ほとんど爆発音に近い音と閃光で、自陣が何かしらの攻撃にさらされているのではないかと一瞬危ぶんだほどだった。

本作は良質なミリタリーフィクションであると同時に、常に闘いの前線にさらされるのは、安達のような小市民や弱い立場の者であるという否定できない事実を突きつけてきます。濃密な戦闘シーンはもちろん、その背景に隠されがちな政治問題や社会課題にまで目を配られて書かれた、普遍的な強度を持つ作品です。

『臆病な都市』


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『臆病な都市』は、砂川が2020年に発表した小説です。首都庁で行政官として働くKという若い男を主人公に、「けり病」という新型感染症をめぐって翻弄される社会のさまを描いています。

ある地域で“けり”と呼ばれる鳥の不審死が相次ぎ、その原因が感染症なのではないか──という憶測が世間で囁かれるようになったところから物語は始まります。けりのような死に方は他の鳥類にも見られるもので、新型感染症というものは存在しない、と専門家は早々に結論づけます。しかし、その感染症によってうつのような症状が引き起こされるという噂が広まったり、事態を深刻に思った市民が養鶏場の鳥を焼き払ってしまったりしたことから、行政官であるKは、会議で公的に“感染症”の対応策についてのコメントを出さなければならなくなってしまいます。

Kは、国家公務員として数年の月日を過ごすあいだに、組織や世間における“最大公約数”からはみ出さない限り、自分の立場は脅かされないという考えを強くしていました。

大小いかなる問題も、湖に沈めることで「解決」と言ってきた組織だ(中略)。この組織において規定される優秀な職員とは、ある理論、学説に通暁しているとか、仮設を立てて特定の問題に対して科学的な手法で解決の糸口を探る能力に優れているということではなく、自身の所属する組織と、相対する複数の組織とのパワーバランスを的確に把握し、波風を立てず、また前例から外れることなく、それでいて自己の組織が持つ機能を拡張させることができる職員のことだ。言うまでもなく、ここに至るためには、まず自身の上司がそのさらに上にある上司からどう評価されているかを十分に弁えていることが大前提だ。

彼は自分の信念に則り、市民の溜飲がわずかでも下がるようなその場しのぎの対策を考えます。結果的に“感染症”に関する噂は加速していき、国が定める機関で定期検査をすることが国民に義務づけられます。また、検査済みであることを示すワッペンをつけずに公共交通機関に乗ることができなくなったり、有志の市民団体やボランティアチームによる“感染症”疑惑がある人への通報が推奨されるようになるなど、狂気的なまでの監視社会になっていくのです。

事態の重大さに気づいたKは、一度は反抗を試みるものの、“最大公約数”から外れることへの恐怖感と億劫さがそれを上回り、結局は元のように優秀な行政官としての振る舞いを続けていこうと決意します。

本作は、多少の不自由があろうとも、安全が保証された場所から動きたくはないという現代人の多くが持つ本心を鋭利な筆致で描いています。『臆病な都市』はコロナ禍以前に書かれた小説ですが、組織の腐食や加速する監視社会の様子といった2020年代に通底する問題を、驚くべきリアルさで捉えた1作です。

おわりに

砂川作品の大きな魅力は、兵士や国家公務員、メッセンジャーといった極限状態に追い込まれがちな職種の人々の生活と仕事が、驚くべきリアリティをもって綴られている点です。『小隊』などの一部作品には軍事関連の専門用語も多く、一見とっつきにくさを感じる読者も少なくないかもしれませんが、その根幹に一市民の葛藤と苦しみがある点は、どの作品にも通底しています。

芥川賞受賞作である『ブラックボックス』をきっかけに砂川作品に興味を持った方は、ぜひこれらの魅力的な他作品にも手を伸ばしてみてください。

初出:P+D MAGAZINE(2022/02/02)

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