モーリー・ロバートソンが語る、「ぼくたちは何を読んできたか」③その青春の軌跡 モーリーのBOOK JOCKEY【第4回】

一方、「ビートの父」と呼ばれつつも、その呼称を嫌っていたレックスロスは1968年から1973年までカリフォルニア大学サンタ・バーバラ校で教鞭を執る。その頃まだ高校生だった「先輩」はレックスロス本人に出会い、多大な影響を受け、1983年にモーリー・ロバートソンに世界最高級の大麻を提供した。

仏教アナキズムに目覚めた若手文学者たちは日常を拒んだ。原初的な心象風景、つまり「悟り」を求めて放浪の旅に出て、手当たり次第に麻薬や幻覚剤をキメまくる。瞑想し、性的に奔放な冒険を繰り返し、アメリカの公序良俗そのものを嘲笑う。時間の流れや自分と他者の心理的な輪郭がぼやけるような酩酊体験に「アメリカン・ブッダ」を見出すかのようだった。

ケルアックの文章の中では時間の流れも論理構造も一つの連続的な流体と化し、主語と述語の構文ですら徐々にタガが緩められていく。演奏家が言葉を即興しているような、文章の非日常がページの上に出現した。読み続けると読者の中である種の酩酊状態が誘発された。

ケルアックはアメリカ版の「奥の細道」を目指していたとも言われる。見える限りの彼方まで広がるプレイリーや険しいロッキー山脈の中にブッダを見出し、あるがままの自然と、そこに畏敬の念を抱いて生かされる人間の調和、社会の矛盾や苦しみからの静かな解放と物質文明からの解脱を目指し、ただに放浪した。

ジャズの即興と狂騒に陶酔し、自身の文体も非論理と非構築の領域へと突き進みながらも、ケルアックは次第に生まれ育った原風景の中にあるキリスト教へと回帰する。その最中にいきなり訪れた名声とマスメディアに露出し続けるプレッシャーに負けてしまい、アルコール依存へと身を持ち崩していった。自分の本を読んで反戦運動に目覚めたヒッピー達とテレビで討論した時には本番中に泥酔し、ろれつが回らなかった。少し後にケルアックは肝硬変による出血多量で死亡。

死後もケルアックをはじめとするビート文学作品は売れ続けた。その非論理的な逸脱がマーケットの中で再解釈された結果、新たな商品の様式として認知され、「ビート風味」を真似る動きもあった。それは言わば放浪や酩酊、瞑想を通じて達成した山の頂にある静寂が、ロープウェイですぐに登れるレストラン付きのリゾートへと再開発されてしまったようなものだった。レストランにはジュークボックスの音楽が騒々しく鳴り響き、トレーに乗せられる食べ物は塩やケチャップやシロップの味がする。

そもそも「ビート」という言葉は、純度の低い覚醒剤であるベンゼドリンを摂取して三日三晩話し合いを続け、とうとう眠りに落ちる間際に身も心もぼろぼろになった状態を「beat=打ちひしがれた」と洒落て表現したものだ。そんな桃源郷を指すフレーズが、若者世代の新しいおもちゃへと化けたのだ。

ケルアックが引きこもり、潰れていったのとは対照的に、ギンズバーグにとってビート文学の商品化はチャンスだった。ギンズバーグは手当たり次第に反体制運動に飛び込み、政治を煽る詩の朗読会を開催し、大物音楽家やハリウッドのセレブと広く交流し、ビートをブランドとして積極的にマーケティングする。それは1980年代まで続いた。ギンズバーグはパンクバンド、ザ・クラッシュの大ヒットしたアルバム「コンバット・ロック」にも参加。ツアーではステージにも上がった。ハーバードの「才女」にインタビューを受けたのも、このツアーの最中だった。

リバイバル中のビート文学は1980年代、ハーバードの一角で強い磁気を放っていた。あまりに険しい学業の競争社会から一定の人数が絶えず脱落し、隅へと追いやられる。その中のある少数精鋭はそれぞれのきっかけでこの地下の流れに触れ、メインストリームへの失望や怒りをすべてビートな逸脱へと集中させた。野蛮な情熱を野放しにしながらも澄みわたる知性を求めて。

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