◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第1回 前編

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歴史小説の巨人・飯嶋和一が描く新たな田沼時代、連載開始!

 加瀬屋伝次郎の一番の道楽は絵地図で、書肆(しょし)や古物商から興をひく出物があるたび言い値で買い取ってきた。高価すぎて諦めたもののなかには縦七尺に横十尺にもなるブラウの「新世界全図」もあった。銅版画によるオランダ製の絵地図は異様な大きさにもかかわらず細部までくっきりと印刻され、丸屋が銅版画を志すのも理解できた。

 伝次郎は、東海道筋の芝宇田川町で居つき地主の家に生まれた。地主は自分の住む土地に家作(かさく)を建て、それを町衆に貸しその上がりで食べていた。地所は東海道に面した表店(おもてだな)と裏長屋で、何ら暮らしには事欠くことのない分限(ぶんげん)である。

 江戸では民政の長としての町奉行の下に、市政を担当する町人自治の制度がしかれていた。その町役人(ちょうやくにん)とは、町年寄(まちどしより)、名主(なぬし)、地主、家主(いえぬし)からなる組織だった。町々を支配する町年寄は、樽屋(たるや)、奈良屋、喜多村の三氏からなり、いずれも日本橋に役所を構えていた。そして町年寄の支配を受ける名主、地主、家主が町人の直接支配に当たることとなっていた。かつては伝次郎のような地主が、町触(まちぶ)れの伝達、住民の訴訟、道路整備、諸役の検視、火消しの指図まで自ら行っていた。が、今ではすべて雇い入れた家主に任せきりとなっていた。家主は、借家者の言う大家(おおや)のことである。地主は、自らの地所における諸経費を負担し、そこに住む町人の責任を負うことになっていたものの、雇い人の大家を住まわせ給金や肥料となる糞尿代などの特権を与えて諸役を代行させていた。

 この年明け、飢饉(ききん)のため急遽(きゅうきょ)芝に救民用の籾蔵(もみぐら)が設けられることになった。何の風の吹き回しか伝次郎がその囲い籾支配を町年寄から命じられることになった。町名主は、町触れの伝達、人別改め、裁きを始め、支配地内の暮らし全般にわたって責任を負わされた。地主は、町役人とは名ばかりでただ暇を持てあましている。この非常時、手の空いている地主に役目を負わせようとの判断だと思われた。しかし、おかみの場当たりな施策は、大衆の憤懣(ふんまん)をそらすための欺瞞(ぎまん)に過ぎない。何であれ手続きばかりが面倒で、結局必要な者たちには何の恩恵ももたらさないことはわかりきっていた。

 現に籾蔵ばかりは建てたものの、肝腎の籾米が、いつ、どこから、どれだけ、下りるものか誰に尋ねても知らなかった。こんな時節であれば、まずは大火後のお救い小屋に類するものを造り、条件を設けず男は米二合、女一合の割りで分配するほうが、困窮する者にはよほど恩恵があると思われた。自分の地所に住む者たちの責任は持っても、わずかな給金などをあてがわれ、腐り切ったおかみの仕組みに振りまわされる気だけはさらさらなかった。この話をなかったことにする手を伝次郎は考えた。

 日本橋の町年寄御役所に呼び出され、仕方なく伝次郎は羽織袴(はおりはかま)で出向いた。町年寄の樽屋与左衛門(よざえもん)は「特にこんな時節には情実に一切惑わされず、一律に、厳しく分配できる者でなければとても任せられない」と真顔で伝次郎に言った。

 伝次郎は座を正したまま朝から我慢していた小便をその時一気に放った。御役所の青畳に黄金水が流れ出し、樽屋もそれには驚愕(きょうがく)して立ち上がった。

「あ、これは不調法、近頃、しもの具合がどうもいけませんで……」

 囲い籾差配役の話はたちまちにして立ち消えとなった。

 伝次郎は当年五十三を数え、両親はすでに亡く、兄弟姉妹も妻子もなく、勝手に向こうからやってくる丸屋らを除けば格別親しい友も持たなかった。住んでいる芝周辺では、もとより畸人(きじん)扱いされていた。

(後編へつづく)
〈「STORY BOX」2019年3月号掲載〉

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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