◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第5回 後編

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幕府による蝦夷地開発は将軍家治の決裁に──。伝次郎は佐竹曙山の死を知る。

『蜆子和尚図(けんすおしょうず)』という奇妙な絵も丸屋から見せられた。蜆子和尚は、中国宋代に海老や蟹を食べて生きていたという奇行で知られる禅僧だった。縦長の紙に描かれた人物は左手に海老を持ち、あたかもそれらしき格好はしていたが、はげ上がった頭に残された後頭部の白髪と白い顎髭(あごひげ)の形や鼻が高く彫りの深い顔だちは、一見して西洋人とわかる風貌を示していた。左手と胸から上しか描かれていなかったものの、身に着けている濃い茶の衣服も、古い屏風絵に残されたキリスト教の修道僧が身に着けていた麻の衣を思わせた。人物の頭上には「KensPaap(蜆子和尚)」、そして人物の頭部左端にも「Kookangeschilder(江漢画)」との西洋文字を書き込んでいた。どこで手に入れたものか、丸屋はキリスト教の聖人図を持っているらしかった。

 紙に描かれた絵の表面には、これまで見たことのない光沢があった。これが西洋の油絵だという。油絵具は、エゴマ油を煮立てたものに乾燥剤の密陀僧(みつだそう=一酸化鉛)を入れ、彩色顔料を練り混ぜて作るのだという。

 丸屋は、金になるからといって漢画の絵師に安住する気はなく、腐食銅版画や油絵の西洋画制作へとその志を向けていた。

 

 西洋画法の絵師といえば、杉田玄白らの翻訳した『解体新書』で細密な原典の挿絵を忠実に再現し、世を驚嘆せしめた秋田藩士の小田野直武(おだのなおたけ)が知られていた。有名な足と手の筋肉図をはじめ、挿画のすべてが日本人絵師の模写したとは思えない出来ばえだった。しかも、原典の挿絵は銅版画であるが、木版でそれを再現した。医学書ながら『解体新書』は、小田野直武の傑出した描写力に加え、日本で木版画にかかわる彫師(ほりし)と摺師(すりし)の技術の高さを証明する仕事ともなった。

 そもそも秋田藩に洋風画なるものをもたらしたのは平賀源内だった。安永二年(一七七三)六月、源内は財政赤字に苦しむ秋田藩から招かれ、鉱山開発のために秋田へ出向いた。源内は、藩主佐竹曙山と幼少から画才をうたわれていた角館(かくのだて)の小田野直武に、物に陰影を与え、遠近法によって立体的に描く西洋画の画法を伝授した。

 天与の画才を備えた小田野直武は、曙山の命を受け同年十二月江戸詰の秋田藩士として江戸へのぼり、源内のもとで西洋画法を学ぶ機会を与えられた。角館支城の下級給人(きゅうにん)から秋田本藩江戸詰の銅山産物吟味役(ぎんみやく)という異例の抜擢だった。源内の手元には西洋の書籍が多く集められ、小田野直武は西洋の絵師による銅版画を模写することで、その画法を学ぶことができた。二十五歳の田舎侍がその画才を藩主に認められ、江戸に出てきて別天地に足を踏み入れた。画業には打ち込んだものの、小田野が名目だけの藩務をこなすはずもなく、女郎狂いと泥酔に日々を費やし、さすがに見かねた源内からも厳しく訓戒されるほどだった。

 武士のたしなみとされる漢学や武術ではなく、よりによって絵画の才を藩主に愛でられ、ついには御側御小姓並(おそばおこしょうなみ)までに栄進した。ほかの江戸詰の藩士たちのやっかみから孤立するあまり、小田野は遊蕩に逃げ込まざるをえなかったものだろう。

 安永八年(一七七九)の冬、平賀源内が十二月十八日に獄死し、同じ頃に小田野直武も、藩の重役どもから藩務怠慢を指弾されて謹慎を言い渡され角館へ帰った。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

◎編集者コラム◎ 『上流階級 富久丸百貨店外商部』高殿 円
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