◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第5回 後編

◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第5回バナー画像

幕府による蝦夷地開発は将軍家治の決裁に──。伝次郎は佐竹曙山の死を知る。

「十年以上も前に亀太郎は江漢先生の画才を見抜いていたことになるわな。だが、すべては、けなげな納豆売りの小僧への、亡き御母堂の慈しみだったわけだ。冬の早朝に納豆屋で仕入れ、寒さに震えながら天秤棒をかついで売り歩き、あの訳のわからん腰高障子の中でお前さんの描いた黄蝶と菜の花を目にとめた。必ず春は来ると、おのれを励ましてくれるものをきっと感じたものだろう。憂きことばかりの世のまやかしをぬぐい去り、真の光を見せる。美しいものにはそういう力がある」

 亀太郎は、伝次郎の所有する芝宇田川町の裏長屋に母親と住んでいたが、明和九年(一七七二)二月の目黒行人坂(ぎょうにんざか)大火を機に、高輪大木戸外の牛町で牛車引きの小僧となった。まだ数え十一を迎えたばかりだった。亀太郎が八つの時に銀細工職人だった父親が死に、以来母親が縫い物と繕い物を手がけ、亀太郎は冬期に納豆売り、夏場には硫黄附木(いおうつけぎ)の天秤棒をかついで暮らしを助けていた。なかなかできた小僧で、礼儀をわきまえ汚い言葉をけして遣わなかった。

 その亀太郎が、先代家主(いえぬし)の仙蔵へ牛車引きになりたいと願い出た。伝次郎は高輪牛町で一家を構えていた枡屋長左衛門と親しかった。そこで大家の仙蔵は伝次郎に話を持ち込んできた。

 当時の亀太郎は痩せて体も小さく、何年経とうと牛車を引けるようになるとはとても見えなかった。伝次郎が「何ゆえ牛車引きなんぞに」と問うと、「牛がとても好きです」と澄んだ目ではっきり答えた。材木やら大竹やら、酒や味噌の樽などの大荷物を山と積んだ荷車を引きながら、黙々と歩を運ぶ牛の姿が好きだという。

 馬は武士の乗り物で、江戸で荷車を引くのは人か牛ということになっていた。大荷物を積んだ牛車が、目の前の東海道を毎朝江戸市中に向かっていた。材木や大樽の車を引くのは牛でも、荷の上げ下ろしは牛車引き夫がやらなくてはならない。金が儲かるから、ではとても勤まらないが、心底牛が好きならば牛町で暮らしていける。伝次郎は枡屋に掛け合うことにした。

 亀太郎が枡屋の小僧に雇われて半年後、主(あるじ)の長左衛門が伝次郎のところへ来て、「あの子には牛がよくなつく、ほかの牛引きには抗う気難しい牛があの子の言うことはすぐに聞き入れる」と不思議がった。牛は見た目よりはるかに賢く、人語を解し、人を見分けるのだという。亀太郎は、朝起きるとまず牛の飲み水を汲み替え、いくら疲れていても自分が箸を取る前に牛へ飼い葉を与え、牛小舎の土間を誰よりもきれいに掃除すると長左衛門は話した。

 翌年の夏には小柄な亀太郎が牛車を引く姿を見かけるようになった。高輪から江戸市中に向かう牛の中には、乾いた糞を尻につけているのをよく見かけたが、亀太郎の引く牛は、いつ見ても毛並みがきれいで一目でわかるほどだった。心なしか亀太郎の牛はその眼差しも穏やかに見えた。

 六年前、牛の流行(はや)り病が起き、高輪の牛町でも多く牛が死んだ。しかし、亀太郎が世話をし引いて歩く牛は、二頭とも何事もなく無事だった。枡屋長左衛門には子がなく、五年前に親戚から養女を迎え、跡継ぎに亀太郎をその婿とした。

「旦那が目をかけた者は不思議に出世する」と丸屋は笑った。

(連載第6回へつづく)
〈「STORY BOX」2019年7月号掲載〉

次記事

前記事

飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

◎編集者コラム◎ 『上流階級 富久丸百貨店外商部』高殿 円
【名作にみる愚か者たち】シェイクスピアからドストエフスキー、そしてクストリッツァへ