◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第5回 後編
翌年五月十七日、小田野直武は突然吐血し郷里角館で世を去ったという。まだ三十二歳の若さだった。日本の医学に大きな転換をもたらした『解体新書』の挿絵を任され、見事にその大任を果たした才能は、大成することなくみちのくの地に消えていった。
小田野直武が江戸詰となって平賀源内のところに出入りしていた時期には、丸屋もまた平賀源内のもとに通い、西洋画法を学んでいた。丸屋は小田野直武をよく見知っているはずだった。ところが、丸屋の口から小田野の名は出たためしがなかった。おそらく丸屋は、『解体新書』の挿絵を描き一躍名を上げた小田野直武の存在が面白くなかったのだろう。秋田藩士ゆえに小田野直武は源内によって杉田玄白へ推挙され、町人であるためにおのれはその好機を逃したと思っていたのかもしれない。実際にそういうことは起こりうる世の中だった。丸屋は、画才ならば誰よりもおのれが優れていると信じているふしがあり、絵師が絵画以外のことで評価されることは耐えがたかったに違いない。
されど、町人であるがゆえに今も丸屋は西洋画を描き続け、武士だったがゆえに小田野直武も、元高松藩士の平賀源内までも、天与の才を備えながら不遇のうちに早々と世を去ることになった。
『劣位にあるがため人はかえってその器量を長成(ちょうせい)できる』それは、古(いにしえ)より伝えられる東洋の賢人の教えなのだが、丸屋はまだわかっていないようだった。
十七
丸屋勝三郎がこの日『蜆子和尚図』の油絵と一緒に携えてきたのは、全紙大の紙に描かれた隅田川と三囲稲荷(みめぐりいなり)のある絵だった。かつて伝次郎がもらった同じ画題の銅版画による眼鏡絵(めがねえ)とは異なり、じかに紙へ筆で描き彩色され、左右が逆になっていないものだった。何度も〆木(しめぎ=プレス機)にかけ摺りを重ねると、銅版板がすり減り、新たな版板を作らなくてはならなくなるという。
「前作は、いま一つ気に入らないので新たに作る下絵のためにもう一度描いてみました」と言って伝次郎に贈ってくれた。「旦那はこういうのがお好みでしょう?」丸屋はそう笑いながら付け加えた。今度の筆画も、空が広がり、その下に隅田川が空の青を映して静かに流れ、はるかに遠く筑波の山影が望めた。
丸屋の絵画を見るようになってから、伝次郎は天空を景色の中心として眺める癖がついた。丸屋の絵画にはたいてい空が大きく描かれ、澄んだ青をたたえていた。天空を渡る風の音さえ感じられた。絵画のなかで、人々は天空の下、蟻のごとく微細にうごめき立ち歩いていた。忙しく大橋を渡り、願掛けに詣で、あるいは郊外の茶屋で憩い、それぞれが確かにどこかで見た光景を表していた。そしていずれの人も、いつかは消えていく。家屋敷はおろか寺社も、大河でさえも、地表にあるものはいずれ何もかも変わっていくに違いなかった。それでも天空だけは人智のおよぶところではなく、いつまでも変わらずそこにあり続けるだろう。丸屋勝三郎の絵画は、永遠と呼ぶものがあるとすれば天空だけだと語っているように伝次郎には思えた。