◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第6回 後編

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伝次郎が田沼時代の終焉を思う一方、幕府御用船は蝦夷島を目指して出航する。

 幕府は、国益を標榜して何よりも幕府の利益を優先し、大名から領地を取り上げ幕府領とする「上知(あげち)」をたびたび行おうとした。

 宝暦十四年(一七六四)五月、幕府は、輸出用の銅と銀貨鋳造のため、秋田藩から阿仁(あに)銅山を取り上げようとし、銅山とその山麓一万石の上知を発表した。秋田藩佐竹家にとって、産出量の多い阿仁銅山を召しあげられることになれば、ただでさえ悪化している藩財政の立て直しなど不可能となる。江戸屋敷を中心に必死の上知撤回運動を行い、当時御用取次だった田沼意次を動かして何とか中止に持ち込んだ。

 明和六年(一七六九)二月、またも幕府は、灯油価格の引き下げを目論見、尼崎(あまがさき)藩から灯油生産の盛んな兵庫と西宮を含む二十四か村一万四千石の上知を公表し、これは実際に行われた。

 今回の検分が長崎での輸出用俵物(たわらもの)を確保するため蝦夷地の上知を企図した査察であることは、松前藩も気づかぬはずはなかった。

 松前藩は、佐藤玄六郎ら普請役に対して充分な威厳をもって先住民に対するよう、百石以上の知行を受ける武士のごとく裃(かみしも)を着用し、具足櫃(ぐそくびつ)に槍、鉄砲を携えて威厳を示し、蝦夷地入りするよう求めた。そして、その支度は松前藩がすべて貸し出すと申し入れた。内地商人による蝦夷地での搾取と抜け荷の実態を暴かれないよう、探索方と先住民との接触を極力避けさせるためだった。

 佐藤玄六郎らは、「われわれは軽輩の御家人ゆえ、幕府の定める格式を越えることはできない。槍や鉄砲のたぐいは携行しない」とこれを拒んだ。但し、案内人などで同行する松前藩士は、従前の慣例どおりの装備でよいとした。

 先住の民を萎縮させたところで普請役にとって良いことなど何もない。任務を果たすには彼ら先住民の協力が何よりも重要だった。

 とくに松前藩が繰り返したのは、東蝦夷地におけるクナシリ・キイタップ・アツケシ(厚岸)の先住民への対応だった。彼らは頑強でしかも扱いが難しく、安易に彼らと接触することは危険であると警告した。言われるまでもなく探索方も、「赤人(ロシア人)」の出没する地域につき、検分隊の人員も西蝦夷隊より多く配置し、慎重に行動する心づもりだった。

 これまでの蝦夷地に関する文書や書籍で、東蝦夷地の先住民が一筋縄ではいかない勢力を保持していることは探索方もうすうす知っていた。金座手代の坂倉源次郎(さかくらげんじろう)が元文四年(一七三九)に著した『北海随筆』にもそのことは強調されていた。しかし、異国交易を担っている先住民の勢力については不明なままだった。

 

 安永三年(一七七四)、内地商人の飛騨屋久兵衛は、松前藩への貸し金八千両余の代償としてアツケシほか三カ所の商業場を請け負った。表向きは松前藩からの請け負い業務であったが、飛騨屋ら内地商人は一つの交易商場に対して二百七十両を松前藩に納め、現地先住民との交易取引を独占できる仕組みとなっていた。飛騨屋は、アツケシ・キイタップ・クナシリの三場所に運上屋(うんじょうや)と称する商い小屋を設け、現地先住民との交易独占を許された。

 ところが、クナシリ島にはツキノイ、アツケシにはイトコイという強力な先住民の統率者がおり、かれらは松前藩や内地商人が考える以上に強大な力を持ち、はるかに賢明だった。松前藩から「乙名(おとな)」と呼ばれる先住民の酋長は、世襲ではなく集落で最も賢く力のある人物が自然に選ばれた。たとえ猿や豚が生まれ出てきても代々の知行と格式を受け継ぐことになり、結果として猿や豚だらけとなってしまった幕藩制の武家連中とは違った。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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