◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第6回 後編
翌安永四年、ツキノイはクナシリで飛騨屋の商船を襲撃し、飛騨屋は天明元年(一七八一)までクナシリでの交易商売はできなくなった。
その間の安永七年(一七七八)と翌八年、ツキノイは、ロシア商人を案内してノッカマップ(納加麻布・納沙布半島北岸)とアツケシに渡った。ツキノイは、黒羅紗(くろらしゃ)のロシア製コートをはおり、その内には艶(あで)やかな赤地に雲龍紋の清国(しんこく)製絹織物「蝦夷錦」を着込み、足にはロシア製の革ブーツを履いていた。六尺近い巨軀(きょく)に、伸ばした髭(ひげ)も髪も黒々として眼光鋭く、中国の史伝からそのまま抜け出てきた英傑のようだった。表向きはロシア人の依頼によって水先案内をつとめただけのように装ったが、実はツキノイの意図によってロシア商人に松前藩との通商交渉をさせようとしたものだった。
千島列島からキイタップやアツケシにいたる東蝦夷地の先住民にはロシア人が背後におり、松前藩が思い込んでいるような一人の日本商人が交易商場を独占できるといったものではないという事実を、ツキノイは松前藩に突きつけ牽制(けんせい)した。双方が対等でなくては交易は成り立たない。傲然と船を乗り入れ、一方的に猟果を奪う者は盗賊である。自分が統率するクナシリではそんな蛮行を許さない。ツキノイは言葉ではなく、行動でそれを松前藩に通告した。
彼らクナシリやアツケシの先住民が深くかかわる毛皮の交易網が、西は中国大陸からヨーロッパ、東はアリューシャン列島から北アメリカ大陸のアラスカ方面まで、広大な範囲で行われている実態を、幕府はまったく知らなかった。
十五世紀なかば、繁栄を迎えたヨーロッパにおいて、黒テンなどの毛皮需要が高まった。また同時期に、明(みん)朝の中国でも高級毛皮は地位の象徴として特別な価値をもって取引された。高級毛皮を求めるヨーロッパや中国に毛皮を送り込んでいたのは、もっぱらロシア人だった。
一六九七年、ロシアのピョートル大帝は、枯渇し始めた黒テン毛皮を国家が独占することを宣言し、黒テンや狐の毛皮増収のため新たな猟場への進出をうながした。
一七〇七年にロシアがカムチャッカ半島を征服して後、ロシア人はこの地の黒テン・ラッコ・狐を獲りつくし、高価なラッコの毛皮を求めて千島列島を順次南下し始めた。
一七六五年(明和二)、ロシア商人はウルップ島に達した。蝦夷本島のノッカマップからカムチャッカへ、順に千島列島をたどれば、第一島がクナシリ、第二島がエトロフ、そして第三島がウルップとなる。ウルップ島は別名「ラッコ島」と呼ばれるほど近海にラッコが多く生息した。黒テンと並んで最上質の毛皮を持つラッコは、北太平洋、千島列島周辺の限られた海域にのみ生息した。ラッコの毛皮は、アツケシの交易商場においてさえ、下等の赤みがかった一枚が八升入りの米俵三十俵と交換されるほどの高値をつけた。
また、ラッコ毛皮の交易は、北太平洋の千島列島、蝦夷地、カラフトを経由し、アムール川(黒竜江)をさかのぼって清国に入り、そしてヨーロッパの巨大市場へと流れていた。この「ラッコの道」は、千島列島を通路とし、クナシリ、エトロフ、アツケシの先住民を担い手として開始された。それを統率していたのがクナシリのツキノイやアツケシのイトコイだった。
ツキノイの案内によってロシア人が初めて蝦夷本島のノッカマップに渡来し、松前藩に通商を申し入れる安永七年(一七七八)まで、千島列島ではラッコの毛皮を求めて南下してきたロシア人と先住民との紛争も起こっていた。
一七七〇年(明和七)、ロシア人数十人がウルップ島に渡来し、ラッコ猟をしていた先住民を鉄砲で威嚇し、猟場を奪った。ロシア人は、先住民が捕獲したラッコまでもすべて横取りして持ち去った。
翌七一年(明和八)、エトロフ島とクナシリ島の先住民は、前年の報復を果たすべく五十余艘の舟でウルップ島に向かった。ウルップ島で待ち伏せし、ロシア人が上陸したところを弓矢で襲撃した。ロシア人十名を殺したものの、先住民もロシア人の鉄砲で撃たれ四、五人が死んだ。突然の襲撃に生き残ったロシア人は小舟で逃走したものの、先住民は足の速い舟で追いかけ、矢で二、三人を射殺し、多くに怪我を負わせて撃退した。