◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第6回 後編
庵原弥六の任務のなかで最も主要なのは、北方の交易経路を調べあげることだった。江戸でさえ、明らかに中国大陸から運ばれてきたとわかる絹織物の蝦夷錦や青いビードロ(ガラス)の飾り玉、贈答に用いる真羽(鷹の羽)などが、大量に出まわっていた。
庵原らをシラヌシまで舟に乗せてきたソウヤの先住民からの話では、
「カラフトは島であり、海をへだてて北西の先にサンタン(山丹)国がある。シラヌシから島の西海岸を北へ十日ばかり行くとタラントマリというカラフトアイヌの大きな集落があり、そこからまた十日北上したところにナヨロの大集落がある。そのナヨロには周辺の集落を統率する酋長がおり、その人物はサンタン国満洲の役人からヤウ・チウテイ(楊忠貞)という中国名を与えられている。カラフトのアイヌは、毎年そのナヨロから山丹に舟で渡り、また山丹からもナヨロに来て交易をする。そして、ナヨロから蝦夷島のソウヤへ毎年交易にやって来る。カラフトからは、真羽・青玉・錦をソウヤにもたらし、ソウヤからは米・麴・煙草を持って帰る。時にはクナシリからのラッコ毛皮や熊の胆(い)なども持って帰る」という。
山丹すなわち黒竜江(アムール川)の河口地域からカラフトのナヨロ、そして蝦夷島のソウヤを結ぶ交易路が存在するらしかった。ナヨロとソウヤがこの交易路における二大中心地らしいことがわかった。
庵原弥六ら三名は、ナヨロを目指しカラフトの西海岸を板つづり舟で北上した。シラヌシから西側の海は、海底に昆布が密生して青黒く色を変え、弁財船の大船などでは舵が昆布にからまり航行が難しいと思われた。時に庵原らは海岸に上がり測量をしながらタラントマリまで三十里ほど(約百二十キロ)北上したが、飯米が尽きた。ナヨロまではそこからまた三十里ほどあるという。そこで仕方なくシラヌシまで引き返すことにした。
庵原ら三名は、米がなくては食事にならなかった。ソウヤからの先住民が庵原ら三人の身を気遣い、海藻と熊の肉やアザラシ肉を塩茹でしたものを勧めてくれたが、とても口にする気にはなれなかった。現地の先住民が常食するものを心がけて摂らなければ、寒気の厳しい北方では生命にかかわる大事にいたる。まだ穏やかな季節ゆえにそこまでは庵原弥六も考えなかった。
(連載第7回へつづく)
〈「STORY BOX」2019年8月号掲載〉