◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第7回 前編
宝暦十二年(一七六二)六月二十一日、摂津国(せっつのくに)西宮(にしのみや)の住人で雇われ船頭の徳次郎なる者が、漂流の果てにカラフト東北部のウイという所に漂着した。徳次郎は、翌二十二日から南を目指して歩きはじめ、十八日目に偶然カラフトの先住民一人と出会った。その先住民に導かれ九月十二日にカラフト南端のシラヌシに到着した。しかし、すでにカラフトは冬期に入り、大雪と氷によって海路は閉ざされていた。しかたなくシラヌシにて冬と春をやり過ごし、翌年(六三)夏の四月二十四日ソウヤ地方に着岸し、六月四日松前城下に入ることができた。この船頭徳次郎が漂着したウイからシラヌシまでカラフトを歩いたのは、おおよそ八十日間だった。かの者がたどった宗谷から松前までの日数とを比べれば、カラフトが蝦夷本島よりも広大であることがわかるはずだと松前廣長は書いていた。
細かい日付が実話であることを裏付けていた。おそらく松前廣長が直接この船頭から聞き取ったに違いなかった。故里へ帰るという不屈の意志を保ち帰還を果たした西宮の船頭にも驚いたが、偶然出会ったカラフト先住民がシラヌシまでのはるかな陸路を案内し、シラヌシでもそこに住む先住民が、徳次郎に長い冬と春を無事に過ごせるよう衣食住のすべてに心をくだいたことに胸打たれた。カラフト先住民は、誰に命じられたわけでもなく人間生来の慈しみだけで着のみ着のまま裸同然で漂着した日本人を救い、その帰還を無事に果たさせた。
松前廣長は、慣習のままにカラフト先住民を「蝦夷人」「夷人」などと賤称を使って書いていたが、むしろ老子や荘子のいう「聖人」や「至人(しじん)」に近い人々だと思われた。逆に、交易の名で先住民から盗賊まがいの掠奪を続ける本土商人、そしてそんな連中からの運上金を頼りとする松前藩士のほうが、はるかに野蛮で卑劣な生き物だった。老子の語る「無知無欲」は、知識や理論、文化や文明といったこざかしい知を捨てることだった。それらの知がただ欲望を拡大させ、結局人間にもたらしたものは、人をして人を食らわしめるがごとき世の惨状である。明末清初の戦乱を生きた顧炎武(こえんぶ)のいう「亡天下(ぼうてんが)」、すなわち人間性を喪失させたおぞましき世界だった。
二十二
天明五年八月、蝦夷地探索方の指揮役、佐藤玄六郎(げんろくろう)は、単身ソウヤ(宗谷)を出発し蝦夷本島の北部をめぐって、東蝦夷地のアツケシ(厚岸)へと向かうことにした。松前からソウヤ、ソウヤからアツケシ、そしてアツケシから松前に戻り、蝦夷本島を一周しておおむねの面積をつかむという目的があった。
ソウヤには、カラフト踏査を試みた庵原弥六(いはらやろく)らが戻って来た。庵原らは、先住民の助勢によって幕臣として初めてカラフト南端のシラヌシに渡った。そして、シラヌシから約百余キロ北のタラントマリまで行き、また東はアニワ湾を越えて約百二十キロ対岸のシレトコまでを踏査した。庵原弥六は、飯米が尽き、仕方なくソウヤへ戻ったものの、再度のカラフト検分と山丹(さんたん)交易の実態調査のため、来夏を期して下役の引佐(ひきさ)新兵衛と鈴木清七、松前藩派遣の者たちとそのままソウヤで越冬することを決めた。寒気がことのほか厳しいとされる地での越冬体験を実際に試みるという。
この年、飛驒屋に代わって幕府御用商の苫屋(とまや)が行った西蝦夷地ソウヤでの交易は不振を極めた。黒竜江(アムール川)河口の山丹地方からカラフトを経由しソウヤにいたる交易は、全くの期待外れに終わった。そこで五社丸を松前に向かわせ、売れ残った交易品の茶や煙草(たばこ)、古着などを松前で売りさばくしかなくなった。
八月二十三日、佐藤玄六郎は、先住民の板つづり舟に単身乗り込み、ソウヤから蝦夷本島の東北部をたどってアツケシへと向かう探索の旅に出発した。
北の海は、八月ともなると連日高波が襲い、七月上旬までとは全く様変わりしていた。オホーツク海は霧が立ち込めて視界も悪く、この航路に慣れているはずの先住民も常になく慎重に舟を進めるしかなかった。