◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第11回 後編
蝦夷地では検地竿役の新三郎がある疑念を抱き……
ともかく大石は、山丹交易の主要地だというナヨロまで行くことにした。カラフト西岸は、シラヌシを除けば先住民の人家も少なく、岩山と原生林ばかりの風景が続いた。ナヨロにも先住民の家が数軒あるだけだった。
ナヨロから一日かけて北上しクリスナイ(クシュンナイ)の湾に出た。大石は、進めるだけ北上して山丹とカラフトを結ぶ航路の手がかりを見つけたかった。
カラフト先住民の話では、二百里ほど北にオツネシ(オッチシ)という地があり、そこには五十戸余の家がある。その半分は山丹人の商い店で、山丹人が住んでおり、彼らが交易に持ちうる大きな舟もそのオツネシで造られるという。しかし、クリスナイからは海路で二か月はかかり、これからオツネシまではほとんど人家もなく、陸路もないと聞かされた。そこまで三十日を要し、気がつけば六月も半ばになっていた。
二か月を経て八月半ば過ぎともなればカラフトの北部は寒さに見舞われる。ソウヤでの庵原弥六ら五人の寒気病死を知っただけに、大石もオツネシに向かうのをあきらめるしかなかった。
カラフト先住民の話では、オツネシからさらに六十里ほど北に進めば、カラフト島の北端近くにナツカウという山丹に渡る渡航地があるという。ナツカウからは海上十里ほどで山丹に渡れるが、海が浅く岩石が多い、しかも潮の流れも速くて小舟でも渡るのが難しい。それゆえカラフト先住民は、冬に海が凍りつくのを待って、犬に橇(そり)を曳(ひ)かせて山丹に渡るという話だった。
山丹交易もふくめカラフトを念入りに探索するには、食糧を始め充分な補給の体制を築かなくてはならなかった。それには、金銭と時と人とが必要だった。
八月十二日、普請役の山口鉄五郎と大石逸平はアツケシに入港した五社丸に便乗して松前に向かった。幕府御用船の五社丸も、雇い船の自在丸も、秋味(あきあじ=塩引き鮭)を満載して一旦松前に帰り、最盛期を迎えた鮭漁に合わせて再び東蝦夷地へ来る手はずとなっていた。
アツケシに残った普請役の皆川沖右衛門と新三郎らには、シベツ(標津)やニシベツの運上屋で先住民と交易し、御用船と雇い船に塩引き鮭を積み入れる本年最後の交易業務が残っていた。
新三郎は、この年もニシベツの運上屋で御用船が積んできた米・糀(こうじ)・酒・煙草などを先住民と交易し、先住民が捕獲して塩引きにした鮭を御用船に積み込む指図と記帳を担当することになった。
ニシベツの運上屋は、キイタップ場所に含まれ、根室半島の北、風蓮湖(ふうれんこ)近くのニシベツ川河口に位置した。アツケシからは山越えして原生林と湿地を踏みわけ三日の距離にあった。二十数軒の先住民小屋と、十数棟の運上小屋、鮭切り小屋があるだけだった。
岸辺をカワヤナギに覆われたニシベツ川は、摩周(ましゅう)湖に源を発して南東に流れ、オホーツク海に注ぐ。八月ともなれば水面が隠れるほどの鮭が連日遡上した。先住民は、河口に網をかけそれを引き上げては鮭切り小屋で腹を裂いて内臓を引き出し、塩を詰めまぶして型の良い二十尾ずつを俵に収めていった。
九月四日、付近の原野はすでに赤褐色にしおれたヨモギやアザミの草々に彩られていた。野付(のつけ)水道を隔てたクナシリ島には鉛色の陰鬱な空が連日のしかかっていた。