◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第13回 後編
玄六郎らは蝦夷地探索の停止を申し渡され──
オロシャの南下についても、その脅威ばかりが語られるものの、徳内の話ではウルップにオロシャ人が建てた家は放棄され、エトロフに残留していたイジュヨらも食糧難に苦しんでいたという。オロシャ人についても、いまだろくにわかっていないのが実状だった。
新三郎は、ニシベツ(西別)を離れる時に、もうこの地に来ることはないような気がした。同時に、蝦夷地では常に何かに守られているような、心に平穏なものを感じていたことに気づいた。目の前に海があり、背後には山々があった。先住の民は、山や海を信じ、そこからの恵みで暮らせることを知っていた。新三郎も、彼らといる限り何の憂いも持たずに済んだ。蝦夷地においては、何より彼ら先住民の暮らしを混乱させないことを第一に考えるべきだと思われた。
十一月、荒れる冬の日本海を南に向かってひたすら帆走する千五百石積みの巨大な船があった。一枚帆で帆柱は九十二尺五寸(二十八メートル)、一見して弁財船(べざいぶね)によく似ていたものの、船首近くに表帆をもう一枚備え、船首から斜め上に張り出した檣(しょう)には南蛮船の三角帆が付いていた。積荷は、長崎から清(しん)国向けに輸出される俵物(たわらもの)、フカのひれ、干しアワビ、煎りナマコ、昆布を満載していた。二年前に江戸城内で暗殺された田沼山城守意知が生前企画していた「三国丸(さんごくまる)」だった。
これまで冬の日本海を航行するのは難しく、蝦夷本島と長崎間は年に一度の航海しか出来なかった。冬の日本海を航行できれば、蝦夷本島と長崎を年に二度往復することになり、稼働率も二倍となる。外見からはわからないが、船体は洋式船の肋骨(竜骨)二十本と唐船ジャンクの隔壁七枚、そして隔壁を材木二本で前後に貫く和船の様式を交えて堅牢に造られていた。西洋と中国、そして日本の、三国様式による折衷船だった。
三国丸は長崎本籠町の大串五郎平によって建造され、携わった船大工はのべ六千人、銀百五十九貫目の総工費を要していた。海外渡航を厳しく禁じていたこの時代に、幕府が外洋航行も可能な大船を作り就航させた。
前年(天明五)二月、幕府は蝦夷本島の箱館(函館)に長崎会所を設置し、俵物を長崎会所が直接買い入れる専買いとして、これまでの長崎俵物請け方問屋を廃止した。主要輸出品の俵物は、問屋商人によって盛んに国内へ横流しされていた。幕府が蝦夷地産物を独占して箱館の長崎会所に集荷し、三国丸によって長崎への年二度輸送が実行に移された。
田沼意次の構想は、印旛沼干拓も、大和金峰山(きんぷせん)の鉱山開発も、全国御用金令による貸し金会所の設立も、すべて失敗に終わった。ただひとつ、輸出拡大に向け建造させた三国丸だけは実現し、意次が幕政から去った後に長崎へ向かって冬の日本海を突き進んでいた。
(つづく)
〈「STORY BOX」2020年3月号掲載〉
*小説丸での「北斗の星紋」連載は今回で終わります
物語のつづきは「STORY BOX」でおたのしみください