◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第3回 前編
丸屋は気になる事が生じると伝次郎のところにやって来て感想を聞きたがった。この日も、ほかには老いた下女しかいないのに丸屋は急に声をひそめて話し出した。
「実は、ここだけの話ですが、勘定奉行の松本伊豆守(いずのかみ)が、このたび田沼様へ蝦夷地開発に乗り出すよう建言したとか。確かな筋からの話です。
旦那は、狂歌師の平秩東作(へずつとうさく)をご存じですか」
「狂歌集なんぞに時折出ている、内藤新宿で馬宿と煙草屋を生業(なりわい)にしている者だろう。確か稲毛屋とかいう」
「身代を譲って今は隠居の身らしいですが。買い物をなすったことでも?」
「あんな馬宿を兼ねた煙草屋の、安煙草をわざわざ買ってのむと思うか。安煙草をのむやつは皆四十路(よそじ)半ばで向こう岸へ行き着くことになってる」
伝次郎の言葉に笑みは浮かべてみせたものの丸屋の目は笑っていなかった。
「その稲毛屋なんですが、去年の秋に蝦夷島の江差へ渡り、この三月に戻ったとか。稲毛屋を江差に差し向けましたのは、勘定組頭(かんじょうくみがしら)の土山宗次郎(つちやまそうじろう)です」
「ならば蝦夷島の金銀鉱山や抜け荷の実情を調べるためか」
丸屋はうなずいた。
天明元年(一七八一)正月に出た『狂歌若菜集』や『万載(まんざい)狂歌集』にも平秩東作名の狂歌が載せられていた。
『草庵初冬(そうあんしょとう)
草庵の菊は酢和合(すあえ)にむしられて北風寒く冬は来にけり』
『両国橋にて涼(すず)み船を見て
ながれゆく蠟燭(ろうそく)の金がほしいなあ一夜(いちや)三百両ごくの船』
平秩東作こと稲毛屋金右衛門は、狂歌界の顔役で、平賀源内や大田南畝(おおたなんぽ)の文壇登場を世話したことで知られていた。だが、それら近年の狂歌集には、安煙草屋の愚痴でしかない貧寒たるものを恥も知らずに並べていた。そこから山師までの距離はそう遠くない。稲毛屋も、工藤平助の書を読んで、ひと山当てようと欲心をかき立てられたに違いなかった。
「そういう手合いはお上(かみ)に都合よく利用され、いずれは捨てられる。ろくな死に方はしない」伝次郎は丸屋に言い含めた。
丸屋が兄事していた平賀源内も結局は似たようなものだった。稲毛屋の文才など所詮は犬の糞でどうなろうと知ったことではないが、平賀源内は違った。文人としての源内は天骨(てんこつ)を備えていたと伝次郎は思う。ところが源内は、国益なるもののために奔走して消耗し、自ら墓穴を掘るようなことになった。
土山宗次郎という勘定組頭も相当に胡散臭い人物だった。土山は、牛込御細工町(うしごめおさいくまち)に「酔月楼(すいげつろう)」と名付けた豪邸を築き、大田南畝らの文人を招いては派手に酒宴を繰り広げているという。丸屋もそこに何度か足を運んだことがあるらしかった。しかも、吉原は大文字屋の誰袖(たがそで)なる遊女を身請けするほどの資産を持っていた。
丸屋によれば、土山宗次郎の禄米(ろくまい)を受け取る代理人の札差(ふださし)が浅草蔵前の大口屋で、その一族の宗十郎という者が蝦夷島の松前において北方の産物を盛んに買いつけているのだという。土山宗次郎の分不相応の豪邸と高級遊女の身請け、文人らとの派手な遊興資金の出どころは、その大口屋らしかった。
(後編へつづく)
〈「STORY BOX」2019年5月号掲載〉