◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第3回 後編
伝次郎は御徒町(おかちまち)の古書肆(こしょし)長田屋に立ち寄った。ご多分にもれず長田屋も戸前を閉ざしていた。土蔵造りの大戸をたたくと二階窓の観音開きにした土扉から「お待ちください。ただいま参ります」の声が聞こえた。五十を過ぎたはずの小柄な主(あるじ)はくぐり戸を開け、伝次郎が「不忍の蓮の花を見にきたついでだ」と言うと、それまで見せたことのなかった笑顔を作った。「よろしければ白湯(さゆ)の一杯でも」などとさえ言った。こんな時節にも長田屋は、小銀杏(こいちょう)の髷(まげ)をまっすぐに結い上げ、月代(さかやき)に髭もきれいに剃りあげていた。
店の上がり口に腰掛け、長田屋に蝦夷島や北方のことを書いたものがないか尋ねた。
「お見せするほどのものはございませんが」といつもの口上を述べながら奥から出してきたのは、坂倉源次郎(さかくらげんじろう)が元文四年(一七三九)に著した『北海随筆』の写本だった。長田屋はくず紙買いから買い取ったものも、価値があると見れば丁寧につづり直して立派な書籍に仕立てた。
坂倉源次郎は、江戸金座支配の後藤庄三郎の手代だった人物で、元文二年(一七三七)蝦夷島における金銀山の開発を命ぜられ渡海した。さすがに長田屋は乾(けん)巻と坤(こん)巻、それに後編をそろえていた。二朱で構わないと主は言ったが、「また何か北方のことを書いた出物があった時には報せてくれ」と伝次郎は倍の一分金を上がり口に置いて店を出た。
『北海随筆』によれば、松前領は、西は熊石(くまいし)まで、東は亀田(かめだ)までのおよそ六十里ほどで、その両所には関所が設けられ、それより外は和人の住まない蝦夷地だという。蝦夷島の周囲は約八百里。陸路はなく、もっぱら船での行き来となる。その海路は、西蝦夷のソウヤ(宗谷)まで約二百七十里、東蝦夷(太平洋沿岸)のキイタツプ(霧多布・根室地方)まで約三百里あるという。
蝦夷島のほんの南西端にのみ和人が住み、それ以外の広大な地は古(いにしえ)より蝦夷島に住む原住民の土地であるはずだった。
ところが、松前藩主の直轄する蔵入(くらいり)地を除いて数百里に及ぶ広大な土地はすべて藩士の知行(ちぎょう)地として分割されていた。松前藩士は、給米を受ける代わりに原住民との交易を独占する利権を与えられ、米や煙草などの本州産物を船積みして知行地に出向き、原住民の獲る獣や海産物と引き換える仕組みとなっていた。船の行き来できる地の原住民は松前藩支配下の百姓とされ、対等な交易など行われるはずがなく、松前藩の強奪にさらされていたことは想像がついた。
蝦夷産物として原住民が差し出すものは、鷲鷹(わしたか)の羽、熊の毛皮や胆(い)、鹿やトドの皮、昆布、煎りナマコ、干しアワビなどのほかに、蝦夷錦と虫巣(むしのす)とが載っていた。虫巣とは伝次郎が八吉で見たことのある青玉のことで、表面に細かい穴があいているところからそう呼んだ。これらの品は「西海ソウヤの交易なり」という。
しかも坂倉源次郎が渡った四十五年ほど前、すでに近江(おうみ)を始め南部、津軽、出羽などの本州商人が松前藩に運上金(うんじょうきん)を納め、藩に代わって原住民を支配し、その漁獲物を本州に廻して稼ぐという形態に変じていた。享保の頃より蝦夷地からのニシン粕(かす)が、大坂周辺の綿花、菜種、藍(あい)栽培の肥料に使われ始め、蝦夷島の松前、箱館(はこだて)、江差の三港から若狭(わかさ)湾、琵琶湖を経て大坂へ運ばれる経路も整備されていた。