◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第4回 後編
天明四年(一七八四)五月、松本秀持は、土山宗次郎に蝦夷島に関する報告書を出させた。そこには湊源左衛門から聞き取った内容が記されていた。
『諸材木運上金、約千五百両。諸廻船出入り荷物関税銭、約五千両。鮭昆布等魚漁運上金、約二千八百両。長崎俵物運上金、約四百両。諸商い運上金、約四百六十両。都合約一万百六十両。このほかに松前家中の者が取り立てる諸運上金が五千両前後ある』という。
本土からの商人たちが蝦夷島で商売をするために松前藩に対して支払う運上金は、年に一万五千両の巨額にのぼっていた。彼らの実益が、軽くその数倍を計上するのは間違いなかった。
『蝦夷人との交易は決まった相場などなく、だいたい縫い針一本で鮭五匹くらい。酒は水を半分混ぜたものを二升入りの樽ひとつに対して鮭十束(二百匹)くらいが相場である』という。また、『大坂に蝦夷地の産物を商う木村吉右衛門なる者がおり、彼はラッコ島(ウルップ島)で異国人と交易をし、日本で売れば百両になる品と金二両ほどの米を交換した』とも述べられていた。
情報源となった湊源左衛門は松前藩の元勘定奉行であり、根も葉もない噂話のたぐいではなかった。とくに松本秀持が注目したのは、オロシャ人の蝦夷地への到来と抜け荷の横行だった。
安永四年(一七七五)頃、八人の異国人が船でラッコ島に到来し、いきなり鉄砲でラッコ猟を始めた。ラッコ島の蝦夷人はそれに驚き、そのうちの三人を殺した。残りの五人は逃げ帰った。
その後、安永七年(一七七八)六月、また三十人乗りの異国船がやって来た。そして、クナシリノシャマという地に着船し、応対したクナシリ島奉行の新井田大八に言った。
「先年、八人の船が訪れたのは交易を望んだためである。それなのに、ラッコを獲ったばかりに三人が殺された。しかし、われらは恨みをいだいているわけではない。商売をしたいだけであって他意はない。われらは米と酒を望んでおり、それが得られるならば貴公らが望む品を何でも差し上げたい」
大八は、「交易の商売となれば藩主に相談しなければならぬので、明年また来てほしい。その時に返事を差し上げる」と答えた。
彼らは、大八とその家来に砂糖と猩猩緋(しょうじょうひ)や更紗(さらさ)の反物を贈った。彼らの国はオロシャといって猩猩緋は国王の冠服に用いるとかで、日本の領主に贈られたものと思われた。