◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第4回 前編

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年の暮れの江戸を大火が襲う。幕府は北方交易開拓の準備を進めていた。

 

     十一
 

 天明四年(一七八四)十二月二十六日深夜、芝宇田川町(しばうだがわちょう)の地主加瀬屋伝次郎(かせやでんじろう)は、大火を報せる二度打ちの半鐘で眠りを破られた。革羽織をひっかけ東海道に出てみると、北の空は火光を映して夕暮れの色を見せ、吹きすさぶ北風にも煙の臭いが混じっていた。

 愛宕(あたご)山上から火勢を確かめてきた若い者の話では、江戸城の東、内桜田(うちさくらだ)の大名小路一帯が激しく燃えているという。確かなことはわからなかったが、町家のない丸ノ内が焼けているのならば大名屋敷からの出火となる。江戸の民は、折からの大飢饉とそれにともなう疫病に苦しめられ、そのうえ大名屋敷からの火に焼け出されることになる。踏んだり蹴ったりとはまさにこのことだった。

 折から冬の北西風が吹きつのり、どこもかしこも乾ききって、北から火の手が上がれば風下に当たる町々は防ぎようがない。十二年前の目黒行人坂(ぎょうにんざか)大火で焼けた家作や貸し店(たな)を建て替え、その借財をやっと返済し終えたと思った矢先の大火到来に、伝次郎は家財をまとめ火難を避けようという気力も失せた。

 十二年前の安永元年(一七七二)は辰年でその二月末、目黒行人坂の大円寺(だいえんじ)から出た火は南西の強風にあおられ、麻布、芝、丸ノ内、京橋、日本橋、神田、本郷、下谷、浅草を経て千住まで達し、江戸の約三分の二を焼く大火となった。あれからちょうど一巡りしたこの年も同じ辰年で、誰もが半鐘の音に神経をとがらせながらも何とか師走の下旬までたどり着いた。ところが、大晦日を目前にしてこの大火騒ぎだった。

 宇田川町の北、新橋のかかった芝口には溜池(ためいけ)から海への流れがあるものの、北西風の強さを考えれば明朝には火が川を越えて来る危険が高かった。宇田川町西の山手には大名屋敷と増上寺があり、その間は愛宕山下の青松寺まで馬場を含む広場が続いていた。それはあくまで将軍家墓所を護るための火除け地で、家財道具を抱えた庶民が集まって来れば追い散らされるのが目に見えていた。生き延びるならば東海道を南へ下り、金杉橋を渡ってひとまず赤羽川の向こうまで逃れるしかない。すでに家財道具を山積みにした荷車が、次々と東海道を南に向かっていた。

 東海道の溝(どぶ)にかかった宇田川橋で、伝次郎が家主(いえぬし)の要蔵と避難の段取りを相談していると、東の新銭座(しんせんざ)町から菅笠をかぶり荷車を引いて東海道へ出てきた者が「旦那」と声をかけてきた。

 丸屋勝三郎(まるやかつさぶろう)だった。引き回し合羽に足まわりを草鞋脚絆(わらじきゃはん)で固め、振り分け荷を肩にかけて長旅へ出るような格好をしていた。広い荷台には油紙と布で丹念に包んだ一斗樽ほどの箱物と葛籠(つづら)、そして小振りな行李(こうり)だけを載せていた。いずれも麻綱を幾筋も渡して縛り付けてあった。おそらく腐食銅版画を作るための器材と絵筆などの画(え)道具、それに丸屋が考案し売り出したオランダ鏡などだろう。ほかの南に向かう荷車が積み上げた鍋釜のたぐいや着物、夜具などは一切見当たらなかった。

 伝次郎は「高輪(たかなわ)へ向かうのか」と丸屋にきいた。

「はい。画道具を焼かれたら私はどうにもなりません。まずは大木戸まで行ってみようかと思います。……去年の暮れには増上寺の糞坊主が火を出し、今度は大名小路とか。まったく、焼け出されても何も困らぬ連中がところ構わず火をまき散らし、たまったもんじゃありません。この風向きならここまでいたることもあろうかと存じます。先に参りますが、旦那も早くお支度を」

 そう言い残して丸屋はさっさと荷車を引き南へ向かった。去年の師走二十二日には芝増上寺で方丈を全焼する火事が起きていた。丸屋の言ったとおりで、増上寺や大名屋敷は燃えたとしてもすぐに建て替えられるが、庶民はそうはいかない。一度の火災ですべてを失うことになりかねなかった。

 宇田川橋から東海道を北へ三丁(約三百三十メートル)ほど行った源助町の浜ぎわには、海に張り出した浜御殿に対する形で、仙台藩主伊達重村(だてしげむら)の上屋敷があった。また、宇田川町のすぐ北隣、柴井町の山側には仙台藩の中屋敷も置かれていた。丸屋は、日頃から仙台侯の画席に呼ばれた話を吹聴(ふいちょう)しながら、藩邸への火事場うかがいなどおよそ眼中になく、いざとなればおのれの身と画道具類しか頭になかった。それがいかにも丸屋らしく、伝次郎は、空荷同然の荷車を引いて遠ざかっていく後ろ姿に、思わず笑いが出て少し緊張がやわらいだ。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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