◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第4回 後編

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年の暮れの江戸を大火が襲う。幕府は北方交易開拓の準備を進めていた。

 板倉屋とは、江戸金座支配役、後藤庄三郎の手代だった坂倉(さかくら)源次郎のことで、金銀鉱山の開発を命ぜられ、蝦夷島に渡り、元文四年(一七三九)『北海随筆』を著した者のことだった。

 明和年中(一七六四~七二)に、山城屋安右衛門(やましろややすえもん)の金山採掘を許可した時、松前藩は御小人目付(おこびとめつけ)を二名付き添わせた。その時も、蝦夷地には入らせず箱館に留め置いた。それから洪水で見分けがつかなくなったところを見計らい、蝦夷地のクンヌイ(国縫)金山へ案内したのである。ただ外回りを見させただけに過ぎなかった。

 蝦夷地は広大である。それだけに産物を当て込み、さまざまな開発願いが出されるだろうからと、案内人には口止めするのが藩の態度である。たとえ公儀の巡検使が派遣されようと同じである。そんな時は、松前の東は黒岩、西は乙部に多くの蝦夷を集めておき、ここまでが蝦夷地だといつわるのである。

 幕府が蝦夷地開発とオロシャ交易に乗り出すとなれば、松前藩の協力は不可欠である。だが、松前藩はこれまでの利権を確保するため、これまでと同じく幕府の使者をていよく追い返すだろうと思われた。しかし、明らかに大陸の製品とわかるビードロ(ガラス)の青い飾り玉や矢羽根に用いる鷹の尾羽、見事な刺繍をほどこした絹織物「蝦夷錦(えぞにしき)」が、江戸市中で盛んに売りさばかれていた。すべて元をたどればオロシャ船から蝦夷地にもたらされた抜け荷の品であることは明らかだった。

 そもそも米のとれない松前藩は、給与を米で与えるのではなく、藩士に原住民との独占交易権を与えるという特殊な知行の仕組みを取っていた。松前藩士は、松前城下で買い入れた米、煙草、鉄器、酒などの本州産の品々を船に載せ、独占許可を受けた蝦夷地の交易場に出向き、原住民の海産物と交換する。そして、蝦夷地の産物を松前に持ち帰り、本土からの商人に売り渡して暮らしを立てていた。

 享保二年(一七一七)、松前藩は、藩士が独占する交易の場を本土商人に譲り渡し、本土商人から運上金を取るという仕組みを新たに取り入れた。それによって藩士は、与えられた交易場に取引のためいちいち出向く面倒もなく、海産物の出来不出来にかかわらず安定した収入を座ったまま本土商人から受け取れることになった。交易場を請け負った近江(おうみ)商人らは、運上金さえ松前藩に納めれば、海産物を手に入れられる地と原住民の労力、そして蝦夷地産物を本土に運ぶ流通機構を独占支配できるようになった。

 松前藩の財政は本土商人からの運上金や役金に頼ることになり、本土商人のやりたい放題、荒稼ぎがここに開始された。蝦夷地では、たとえオロシャ船との密貿易でも、長崎俵物の横流しでも、儲かりさえすれば何でもありの状況となった。

 松前藩は、安永七年のオロシャ人の交易申し入れの件を幕府に一切報告せずもみ消し、また大坂の木村某という商人によるラッコ島でのオロシャ交易をはじめとする抜け荷、昆布など俵物横流しの不法を許してきた。幕府の法をないがしろにしたこれらの事件を徹底して暴けば、松前藩は確実に取りつぶしとなる。

 松本秀持は、これら松前藩の弱みを突きながら協力を取りつけるために、松前藩にとって増益の期待できる蝦夷地金銀鉱山の開発調査、また脅威となりかねないオロシャの千島列島とカラフトの航路も調べ上げる必要を強調して、粘り強く交渉を続けた。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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