◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第4回 後編

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年の暮れの江戸を大火が襲う。幕府は北方交易開拓の準備を進めていた。

 翌安永八年になって例のオロシャ船が再びやって来て、島奉行の松井茂兵衛に「前年、われわれが贈った猩猩緋の冠服をあなたがたは受け取ったが、交易の話はどうなりましたか」と尋ねた。

 松井茂兵衛は猩猩緋を彼らに返し、「交易はできない。国で許している長崎湊(みなと)へ赴かれればよい」と松前藩の意向を伝えた。

 彼らは、「長崎には紅毛人が入港しているではないか。そのうえ長崎は遠路で方角もよくわからない。とうてい出かけて行くことはできない。とにかく蝦夷地はわれわれと島続きで近いのだ」と言って、塩が切れたと帰っていった。しかし、三日経ってまた島に着船した。松前志摩守(しまのかみ)のほうでは、交易はできないと一貫して彼らに返答した。

 だがオロシャ船は、その後も毎年訪れて、ひそかに松前以外の商人と取引しているらしい。これは松前藩とは関係がなく、話によればオロシャ船は、蝦夷地海岸から南部領辺へ直行しているという。

 右のように取り締まりが行き届かないこともある。ラッコ島付近には三十ほどの島が横たわっている。それに蝦夷地や松前藩領の港もあり、国益のうえから、また志摩守のためにもかかわることなので、追ってお考えいただきたい。

 安永七年におけるオロシャ人の交易申し入れは、幕府に何の報告もなかった。松本秀持は、さっそく国元の松前藩庁と下谷新寺町の江戸藩邸に問い合わせた。

『クナシリ島のほかにオロシャ人が船を着けた場所は、どこの何という海岸なのか。彼らは、オロシャ国王が身に着けるという猩猩緋の冠服を誰に贈呈したのか。日本の領主とは、松前志摩守を指すのか、それとも江戸の将軍なのか。その時に何らかの文書を添えていたのではなかったか。なぜその時に江戸表に何の報告もなされなかったのか』。

 松本秀持は、江戸詰めの松前藩士を役宅に呼んで、この件につきくわしく調べ報告するよう命じた。しかし、松前藩からの返答は、『当時の島奉行らは病気や老いで寝込んでおり、くわしく状況を知り返答できる者がいない』という極めて不誠実なものだった。

 松前藩は、遠方にあるがゆえに参勤交代も三年に一度しか行わなくてよいとされていた。松前藩が統括するのは、北方の島々も含む広大な蝦夷地で、あまりに遠方につきこれまで幕府としても介入できず、半ば独立国のごとき態(てい)をなしていた。

 土山宗次郎の報告書にも、松前藩が本土からの査察を極力避けようとする記述が見られた。

 元文のころ、浅草御蔵前の板倉屋源次郎が蝦夷地の薬草吟味(ぎんみ)の願いを出し松前に渡った。東西の蝦夷地に赴きたいとかで二十人ばかりの一行である。しかし、奥地に入らせては産物の状況が外に洩れる恐れがある。そうなっては松前藩の不利になるので、板倉屋に対し、薬草なぞは何もないと称して、当たりさわりのない地をひととおり案内し、肝心のところは見せずに返した。

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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