◇長編小説◇飯嶋和一「北斗の星紋」第4回 後編

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年の暮れの江戸を大火が襲う。幕府は北方交易開拓の準備を進めていた。

 その一方で、松本秀持は、蝦夷地に調査役を送る船の調達、そしてこの航路に熟達した船頭を確保する必要に迫られた。小柄で、子どものように頭部が大きく、どこか眠たげな表情ながら、秀持は、果断な行動力を備えていた。

 蝦夷地探索の普請役として、佐藤玄六郎(げんろくろう)、山口鉄五郎、庵原(いはら)弥六、皆川沖右衛門、青嶋俊蔵の五人をまず選んだ。

「蝦夷地の航路に精通した船頭はおるか」との秀持の問いに、佐藤玄六郎は堺屋市左衛門(さかいやいちざえもん)の名を挙げた。

 堺屋市左衛門は、幕府廻船御用の苫屋久兵衛(とまやきゅうべえ)の手代として蝦夷地に何度も渡っており、クナシリ島まで行ったことがある。また難所で知られる八丈島渡海船の船頭をつとめた経験も持っていた。現在は鉄砲洲に住み自ら廻船業を営んでいるが、経験も腕も人格も優れていると、佐藤玄六郎は堺屋市左衛門を強く推した。堺屋市左衛門の雇う船乗りたちも、蝦夷地の航海に通じていた。

 

 天明四年十月初め、松本秀持は苫屋久兵衛を役宅に呼び出した。苫屋はこの年六月、困窮する江戸の小民に廉価で売り渡すため大坂で買いつけた三万石の米を海路江戸まで運んでいた。

 秀持は苫屋久兵衛に北方調査団の派遣計画を告げ、その見積もりを算出するよう命じた。

 探索隊は、普請役とその下役からなり、二手に分かれて西蝦夷地(日本海側)と東蝦夷地(オホーツク・太平洋側)へ送る。したがって、派遣船は二隻となる。

 一、西蝦夷地探索隊は、普請役一名、下役二名、ソウヤ(宗谷)に拠点を置き、カラフト(樺太)方面の交易路を探索する。かの者たちの何名かはカラフトに渡り、オロシャとの交易を調査する。西蝦夷における金銀鉱山と産物、海路、地理も調査する。

 一、東蝦夷地探索隊は、普請役二名と下役三名、クナシリ島を拠点とし、何名かはエトロフ島とラッコ島(ウルップ島)に渡り、鉱山、産物、交易、海路、地理などの調査に当たる。

 苫屋が問題としたのは、探索隊を蝦夷地へ送る二隻の船だった。カラフトやラッコ島まで渡るとなれば、かなりの難所を航海することになり、中古の船では破船の危険がともなった。船は新たに建造する必要がある。また帆操作や舵取りをふくめ、それぞれ十五人の水主(かこ)が乗り組まなくてはならず、寒気の厳しい蝦夷地を探索できるのは三月から七月(新暦四月~八月)までの五ヶ月前後となる。食糧その他を積むのを考えれば、八百石積みから千石積み級の大船が必要となる。八百石積みの弁財(べざい)船を新造すれば、帆や錨などの船道具をふくめ一隻の相場は千二百数十両、二隻では二千五百両はかかる。

 加えて蝦夷地は満足な港などあるはずもなく、大船を沖に碇泊させ、小型の飛船(とびぶね)をそれぞれ一艘ずつ用意しなくてはならない。飛船は八丁の櫓(ろ)漕ぎ船として百両、二艘で約二百両。そして、船頭二人と水主三十人の雇い賃として約二百両、食糧の米は六十石として三百両、また塩や味噌、薪などの雑費として百五十両はかかる。ざっと見積もっただけで金三千三百五十両となる。

 この財政難の時期に、幕府が調査費用として三千三百両の金を出すのはとても容易なことではなかった。

(連載第5回へつづく)
〈「STORY BOX」2019年6月号掲載〉

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飯嶋和一(いいじま・かずいち)

1952年山形県生まれ。83年「プロミスト・ランド」で小説現代新人賞を受賞しデビュー。88年『汝ふたたび故郷へ帰れず』で文藝賞、2008年『出星前夜』で大佛次郎賞、15年『狗賓童子の島』で司馬遼󠄁太郎賞を受賞。18年刊行の最新作『星夜航行』は、第12回舟橋聖一賞を受賞。

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