【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール

池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の11回目。長期政権で沖縄返還を実現し、日本の「戦後」を終わらせた「佐藤栄作」について解説します。

第11回

第61~63代内閣総理大臣
佐藤栄作さとうえいさく
1901年(明治34)~1975年(昭和50)

佐藤栄作肖像(キリヌキ)_01

Data 佐藤栄作

生没年  1901年(明治34)3月27日~75年(昭和50)6月3日
総理任期 1964年(昭和39)11月9日~72年(昭和47)7月7日
通算日数 2798日
所属政党 自由民主党
出身地  山口県田布施町たぶせちょう(旧田布施村)
出身校  東京帝国大学法学部法律学科
初当選  1949年(昭和24) 47歳
選挙区  山口2区
歴任大臣 郵政大臣・建設大臣・大蔵大臣・通産大臣ほか
ニックネーム 政界の団十郎だんじゅうろう目玉めだまの団十郎
墓  所 東京都杉並区の築地本願寺和田堀廟所つきじほんがんじわだぼりびょうしょ、山口県田布施町の佐藤家墓所

連続在任期間の記録保持者です

佐藤栄作の総理大臣在任ざいにん期間2798日間というのは、通算では明治時代の桂太郎かつらたろう(非連続で2886日)にいで2位、連続日数では最長です。在任中の7年8か月、佐藤はさまざまな政策を打ち出しますが、最大の功績は「沖縄おきなわの本土復帰」に集約されるでしょう。総理就任前から自身の課題と位置づけ、現在では考えられないぐらい長期にわたって取り組み続けます。高度経済成長を背景とした自民党の安定ぶりがあったとはいえ、その執念しゅうねんには驚かされます。
佐藤のとなえた「非核三原則ひかくさんげんそく」、韓国かんこくを含めたアジア諸国との密接な関係、そして後継の田中角栄たなかかくえいに引き継がれた日中国交正常化など、この時代に取られた外交方針が今につながっているのです。

佐藤栄作はどんな政治家か 池上流3つのポイント

1 長期政権

戦後の総理として最長の7年8か月もの政権を維持できた理由に、高度経済成長の波に乗ったことと、ライバルの不在がげられます。とりわけ、ともに吉田茂よしだしげる門下の優等生だった前任の池田勇人いけだはやと総理が病に倒れたことと、水と油のようにいつも衝突しょうとつしていた総裁候補の河野一郎こうのいちろう議員の急逝は、佐藤政権を長期化に導きました。

2 沖縄おきなわ返還への執念しゅうねん

佐藤は、である吉田茂に最後まで付き従いました。吉田がサンフランシスコ講和条約で、沖縄におけるアメリカの統治とうちを認めざるをえなかったことは苦渋くじゅうの決断でした。佐藤にとって沖縄返還問題は、吉田がやり残した仕事でもあったのです。

3 人事じんじの佐藤

佐藤は適材適所てきざいてきしょへの人材の配置、また田中角栄たなかかくえい福田赳夫ふくだたけおといった曲者くせものたちをきそわせることがたくみなことから、「人事の佐藤」と呼ばれました。さらに、人事に関する情報は絶対にらさない徹底した秘密主義。どのような実力者にも左右されず、人事はみずから決めるという姿勢をつらぬきます。

佐藤栄作の名言

沖縄おきなわ祖国そこく復帰がない限り、わが国にとって戦後は終わっていない。
― 1965年(昭和40)8月、沖縄訪問での声明せいめい

20世紀後半の人類はかく時代に
生きている。この核時代をいかに
生きるべきかは、今日すべての
国家に共通した課題である。
―1968年(昭和43)1月、通常国会の施政方針しせいほうしん演説

日本のためによかった。大変うれしい。
― 1974年(昭和49)12月、ノーベル平和賞の授賞式を終えて

揮毫きごう

佐藤栄作揮毫_01

「祝人類月到達之偉業しゅくじんるいつきとうたつのいぎょう 一九六九年七月
於東京とうきょうにおいて 日本国内閣総理大臣佐藤栄作」
1969年(昭和44)7月20日、アメリカのアポロ11号が月面に着陸した。この色紙は米航空宇宙局(NASA)に依頼されたもの。マイクロ・フィルム化してアポロ11号に積んだ。写真/共同通信社

人間力にんげんりょく

◆ たくみな人事術

佐藤の人事は、その時の課題に対して適任の人材を適所にはいするということを、派閥の均衡きんこうをとりながら行なう絶妙ぜつみょうなものだった。それが「異例の人事」とうつることもあったが、やがて佐藤の目が確かだったことがわかるようになる。
たとえば、3選後の閣僚人事で、前官房長官の木村俊夫きむらとしおを副長官に降格させ、沖縄問題に専念させている。一方、他の派閥に属する者でも、前尾繁三郎まえおしげさぶろう派の宮沢喜一みやざわきいちに対するように、れこんだ相手を厚遇こうぐうすることもあり、そのあたりが佐藤の人間臭にんげんくささにもつながっていた。

◆慎重な現実政治家

ちの政治家」といわれたように、佐藤の政治姿勢は慎重のうえにも慎重をきわめた。政策を実現するため、急がず、あせらず、一歩ずつ進む。最後まで本音ほんねを明かさないのも、途中で失敗することを防ぐためだ。そんな佐藤も、場合によっては慎重さをかなぐり捨てることがあった。慎重派だけに、まれに見せる大胆だいたんさが生きた。

◆情報の重要さを知る

沖縄返還で、外務省は「かく抜き本土み」を決断した佐藤に非協力的だった。そこで佐藤は、自前のブレーン(諮問しもん機関)を使って情報の収集に努めている。相手(米国側)が何を欲しているか、いつ頃がよいか、といったことを、学者らをアメリカに派遣して徹底的に調べあげた。それらの情報は外務省よりも早く、的確てきかくだったという。

(「池上彰と学ぶ日本の総理4」より)

初出:P+D MAGAZINE(2017/09/22)

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