【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール

池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の14回目。信念のジャーナリスト宰相、在任わずか65日、戦う言論人であった「石橋湛山」について解説します。

第14回

第55代内閣総理大臣
石橋湛山いしばしたんざん
1884年(明治17)~1973年(昭和48)
石橋湛山肖像キリヌキ_01

Data 石橋湛山

生没年  1884年(明治17)9月25日~1973年(昭和48)4月25日
総理任期 1956年(昭和31)12月23日~57年(昭和32)2月25日
通算日数 65日
所属政党 自由民主党
出生地  東京都港区高輪たかなわ(旧東京市しば芝二本榎しばにほんえのき
出身校  早稲田大学大学部文学科哲学科
初当選  1947年(昭和22) 62歳
選挙区  衆議院静岡2区
歴任大臣 大蔵大臣・通商産業大臣
ニックネーム 和尚おしょう心臓しんぞう大臣
墓  所 東京都荒川区の善性寺ぜんしょうじ

いさぎよい退陣が賞賛しょうさんされました

戦前の石橋湛山は、言論人げんろんじんとして活躍します。軍部をおそれず、全植民地の放棄ほうきを主張する「しょう日本主義」をとなえました。金解禁きんかいきん問題における首尾一貫しゅびいっかんした論説でも、高い評価を得ています。
政界入りのきっかけは、戦後の混乱した日本経済の立て直しに尽力じんりょくしようという考えからです。第1次吉田茂よしだしげる内閣の大蔵大臣に抜擢ばってきされると、緊縮財政を求めるGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に対し、積極財政を主張。GHQにきらわれ、4年間の公職追放というにあいました。追放解除後は鳩山一郎はとやまいちろう内閣の通産大臣に就き、鳩山退陣後の総裁選に勝利、総理の射止いとめます。しかし、わずか65日で病気退陣します。

石橋湛山はどんな政治家か 池上流3つのポイント

1 自由主義言論人げんろんじん

政界入りする前の石橋は、東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃの記者でした。大正デモクラシーでは普通選挙運動の先頭に立ち、軍部が勢力を拡大している時期に、日本の第1次世界大戦参戦やシベリア出兵に反対。満州まんしゅうなど全植民地の放棄ほうきを主張する、「しょう日本主義」を説いています。掲載誌の発禁処分をしばしば受けながら、ねばり強く自由主義に立った論陣ろんじんを展開しました。

2 日本のケインズ

『東洋経済新報』の記者となってから、社内でマルクス研究会などを立ち上げ、経済学を猛勉強しました。1932年(昭和7)には経済学者ケインズの『貨幣論かへいろん』について講演を行なっています。「日本のケインズ」としての本領を発揮はっきするのは、第1次吉田よしだ内閣の大蔵大臣のときでした。GHQが財政削減を求めるなかで、石炭せきたん増産のための財政支出・融資を積極的に行ないます。

3 見事な出処進退しゅっしょしんたい

総理就任直後の1957年(昭和32)1月に、屋外での就任祝賀会に出席して肺炎はいえんになってしまいます。石橋総理の国会欠席には野党である日本社会党も寛大かんだいで、自由民主党内の続投論も強かったのです。しかし、療養りょうようのためにもっとも重要な予算審議しんぎに出られないことが判明した時点で、「私の政治的良心りょうしんに従います」と、辞任を決断します。

石橋湛山の名言

私は自由主義者ではあるが、
国家に対する反逆者はんぎゃくしゃではない。

― 1947年(昭和22)、書簡「私の公職追放に対する見解」より

医者は医書を読んだだけでは、病人をなおせない。本を読むとともに、実習じっしゅうようする。経済学も同様である。
― 1952年(昭和27)、『経済学新体系 月報』より

政治家の私利心しりしんが第一に追求すべきものは、財産や私生活の楽しみではない。
国民の間にわき上がる信頼であり、名声めいせいである。

― 1968年(昭和43)、「日本防衛論」より

石橋湛山の揮毫

石橋湛山揮毫01_01

「Boys,be Ambitious!(少年よ、大志たいしいだけ)」
甲府第一高等学校蔵
1947年(昭和22)8月に石橋湛山が寄贈した書。石橋は甲府第一高校の前身にあたる山梨県立尋常じんじょう中学校で、恩師大島正健おおしままさたけから、クラーク博士のこの言葉を学ぶ。「Boys, be Ambitious!」は現在、甲府第一高校の校是こうぜにもなっている。

石橋湛山揮毫02_01

石橋湛山書「和 和」
山梨平和ミュージアム――石橋湛山記念館蔵
「日中米ソ平和同盟」を提言した、石橋らしい書。

石橋湛山の人間力

◆進む覚悟と退く覚悟

石橋湛山が社長を務めた東洋経済新報社とうようけいざいしんぽうしゃは、戦時中であっても自由主義の言論を捨てなかったため、軍部から圧力がかかった。
軍部に迎合げいごうするか、あるいは社がつぶれるかの瀬戸際せとぎわに追いつめられたとき、社内の一部には石橋社長を辞めさせて軍部に協力しようとする動きがあった。これを石橋は断固拒否。その一方で、つぶされた場合には社の土地建物を全部売り払い、社員の退職金とする覚悟も固めていた。

自己啓発じこけいはつの精神

早稲田大学大学部文学科哲学科を出た石橋湛山は、当初、経済学に関してはまったくの素人しろうとだった。勉強したのは東洋経済新報社に入社してからだ。
必要にせまられて勉強をはじめた。経済学者セリグマンやリカードの著作は、通勤電車の車中で独学する。J・S・ミルやマルクス、ケインズなどの理論は、社内勉強会を催して頭にたたき込んだ。経済学書はたいてい原書で読んだというから、気合いの入れかたが違う。

(「池上彰と学ぶ日本の総理7」より)

初出:P+D MAGAZINE(2017/10/13)

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