【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール
池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の46回目。陸軍大将で皇族出身の総理「東久邇稔彦」について解説します。
第46回
第43代内閣総理大臣
東久邇稔彦
1887年(明治20)~1990年(平成2)
終戦後初の国会で演説する東久邇稔彦。1945年(昭和20)9月5日撮影。写真/毎日新聞社
Data 東久邇稔彦
生没年月日 1887年(明治20)12月3日~1990年(平成2)1月20日
総理任期 1945年(昭和20)8月17日~45年10月9日
通算日数 54日
出生地 京都市上京区京都御苑
出身校 陸軍大学校
歴任大臣 陸軍大臣
墓 所 東京都文京区の豊島岡墓地
東久邇稔彦 その人物像と業績
初の皇族内閣が成立、敗戦処理に向かう
日本の敗戦に国民が動揺し、軍部が反発するなか、
陸軍大将で皇族出身の新総理は、
占領後の新体制へスムーズな移行を試みる。
●敗戦後の混乱収拾に全力をつくす
1945年(昭和20)8月17日午後7時、総理官邸から臨時のラジオ放送が流された。マイクに向かっていたのは、内閣を組織したばかりの総理大臣・東久邇稔彦だった。
「陛下は、このたびの大戦の収拾にあたって、『国民の気持ちはわかる、しかし感情に走ってみだりに事態を混乱させてはならぬ』と諭されています。……私は国民が万難に耐え、陛下の意に沿うべきことを期待します」
鈴木貫太郎内閣の後を受け、皇族で陸軍大将でもあった東久邇に大命が降下したのは、国民の動揺を鎮めるには、皇族としての権威の発動が必要だと考えられたからだった。
軍の一部に降伏を承知しようとしない動きもあり、東久邇は秩序の維持こそが最優先と考え、緒方竹虎国務相と相談のうえ、ラジオで国民に呼びかけることにしたのである。
東久邇の試みは好感をもって迎えられ、これにつづく28日の共同記者会見、9月5日の国会での施政方針演説が好評だったこともあり、国民も軍関係者たちも予想以上にスムーズに敗戦という現実を受け入れていく。
また、「国民の皆さんから直接に意見を聴いて、政治をやるうえの参考にしたい」と総理大臣への投書を歓迎する意向を表明し、国民の目線に立とうという姿勢を示したことも、内閣への共感、信頼感を高めた。多いときで1日に1000通以上の手紙が総理官邸に届けられたという。
東久邇の在任期間は54日と歴代総理のなかで最短ではあったが、終戦直後の難しい時期に登板して占領後の混乱を収拾し、日本を新しい体制に導くという一定の成果を上げることができたのである。
●18歳で東久邇宮家を興す
東久邇稔彦は、1887年(明治20)12月3日(一説には2日)、久邇宮朝彦親王の第9王子として京都で生まれた。
父の朝彦親王は宮家としては最古の歴史をもつ伏見宮家の出身で、生涯正妃をもたなかった。稔彦の生母は、久邇宮家に仕えていた寺尾宇多子いう女性だった。
稔彦は生母の乳の出が悪かったため、生後すぐに里子に出された。里親は京都郊外の農家で、幼い稔彦は農家の子どもたちといっしょになって、泥だらけになって遊んだ。
上京して入学した学習院初等学科でも、上級生である皇太子時代の大正天皇に砂をかけてからかうなど、当時の稔彦のやんちゃぶりは際立っていたという。
その後、東京陸軍地方幼年学校に入学する。明治天皇の意向で、男子皇族は軍人になることが義務とされていたからである。
幼年学校をへて士官候補生として近衛歩兵第3連隊に勤務していた1906年(明治39)9月、18歳の稔彦は東久邇宮の称号を下賜され、新たに宮家を立てることとなった。
稔彦は世継ぎでないため華族となる定めだったが、当時、天皇家の皇女たちが嫁ぐべき適齢期の皇族が少なかったため、その候補として宮家を興すことができたのである。
●多彩な交遊を楽しんだフランス時代
陸軍大学校在学中、東久邇は明治天皇に拝謁した際、「日本はいやになったから、皇族をやめて外国に行きたい」と語り物議をかもした。幼少時から奔放に生きてきた東久邇は、皇族としての暮らしを窮屈に感じていた。周囲のとりなしで事は収まったが、自由への願望はその後も燻りつづけることとなる。
陸大を卒業すると、予定どおりに明治天皇の第9皇女、泰宮聡子内親王と結婚した。
1920年(大正9)、東久邇はフランスに留学する。フランス陸軍大学に通う一方、油絵を習い、モネなどの画家とも交際した。また、元首相クレマンソーとも親交をもった。
東久邇は実子の師正王逝去の報せにも帰国しなかった。その後も帰国要請を断わりつづけ、フランス滞在は6年以上にも及んだ。
大正天皇の崩御でようやく帰国後は軍職に復帰し、第2師団長などをつとめるが、このころから右翼団体や怪しげな宗教家などと交際するようになる。皇道派の一部も東久邇に取り入ろうとした。当時は皇族を利用しようという風潮があり、乗せられやすい東久邇は格好の標的と見なされていたようだ。
1941年(昭和16)10月、第3次近衛文麿内閣が総辞職すると、時局収拾には皇族内閣が望ましいとの声が高まり、東久邇が後継候補となるが、このときは成立には至らなかった。太平洋戦争が始まると、東久邇は防衛総司令官に就任した。小磯国昭内閣のときには、来日した繆斌と会談し、和平工作を後押しするが、実現はかなわなかった。
そして、1945年(昭和20)8月14日、鈴木貫太郎内閣でポツダム宣言が受諾されると、17日、敗戦後の混乱収拾という重い課題を担って東久邇内閣が発足したのである。
●波瀾にとんだ後半生
東久邇は総理として終戦処理に力を注いだが、GHQの強権的な指示に対応しきれないと感じ、発足2か月で内閣総辞職に至った。
東久邇のその後の人生は波瀾に満ちている。1947年(昭和22)、直宮家(天皇の子女や兄弟の宮家)以外の皇族の臣籍降下が決まり、東久邇も皇籍を失った。
すると「人生の再勉強」と称して、新宿の闇市で乾物屋を開いた。さらに喫茶店、骨董店なども営むが、いずれも成功しなかった。1950年(昭和25)、戦前から交際のあった宗教家に口説かれ、宗教団体「ひがしくに教」を開き教祖となったが、元皇族ということで問題となり、解散の憂き目にもあう。
晩年には、東久邇に無断で籍を入れた女性が旧皇族夫人になりすまし、詐欺を働くという事件にも巻きこまれた。
1990年(平成2)1月20日、波瀾万丈の人生を歩んだ東久邇は、102年にわたる生涯の幕を閉じた。
閣僚名簿の奉呈に参内した東久邇稔彦
1945年8月15日、組閣の命を受けた当日、赤坂離宮にて。写真/読売新聞社
新任式直後の東久邇内閣
最前列が東久邇総理。2列め左から重光葵外相、米内光政海相、中島知久平軍需相、近衛文麿国務相ら。1945年(昭和20)8月17日撮影。写真/毎日新聞社
禅宗ひがしくに教の教祖となる
旧知の禅僧に担ぎ上げられ、得度して教祖となるが、元皇族ということで政府から問題視され、わずか2か月余で解散させられた。
(「池上彰と学ぶ日本の総理29」より)
初出:P+D MAGAZINE(2018/06/22)