◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第1話 Welcome to Japan〈前編〉

◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第1話 Welcome to Japan〈前編〉

警視庁から東京税関に出向した槌田。羽田空港での研修が始まった。

 今の給料は地方公務員用の規定によるものだ。それに各種手当が上乗せされている。だが出向中は国家公務員一般職扱いになる。基本給は少し上がるが、手当が少ない分、総額とする給料は下がる。

「だとしても、とにかく危なくない」

 勤務内容として直接犯人と渡り合うケースは今よりも確実に減る。ことに勤務地のほとんどが港や空港など、端から武器などの危険物は持ち込めない場所だから、今よりも危険度は低い。

「それに本関舎内勤務のときは、定時の帰宅も今より増えるしな」

 事実、出向して最初の一週間、本関内での座学の間は定時で帰宅できた。ただし、待つ者は誰もいない独身寮の部屋にだ。

 机に座り講義を聞いてノートを取るなど、警察学校を卒業して以来だった。慣れないことをしているだけに疲れはした。けれどそれまでの一日中張り込みをしたり、追跡をしたりという身体を動かす疲れとは違う。警察官になって以降、これほど夜が長いと感じたことはなかった。そして今日からは羽田税関支署に場を移す。東京国際空港内で摘発された犯則事件は本関ではなく、羽田税関支署の調査部が担当している。だが職務全般を学ぶためには現場が一番ということなのだろう、今後数日は羽田税関支署で研修が行われる。

 視界がまた明るくなって槌田は我に返った。電車は羽田空港国際線ターミナル駅に差し掛かる。前の天空橋駅と違って駅のタイルも床も白い。ドアが開き、客が次々に降りていく。大きなスーツケースを転がす旅行客もいれば、到着者の出迎えか空港内で働いているのか、小さなバッグだけの者もいる。改札を抜けた槌田の目の前の床に巨大な矢印が見えた。青空に雲が浮かび、穴が空いているように見えて一瞬怯む。だがその上に「ホーム行き」の文字とイラストによるエレベーターの表示が見えて、床の上に立体に見えるように描かれたものだと気づいた。

 改札を抜けて右側正面にエレベーター、左奥に二階へ直通するエスカレーター。エスカレーターは到着ロビーの二階行きと出発ロビーの三階行きの二種類がある。二階へ上がってから、一階へ下りて外に出てそのまま左に直進──。

 新たに同僚となった英明(はなぶさあきら)から聞いた説明を思い出しながら足を進める。羽田空港国際線旅客ターミナル内にも分室があるが、羽田税関支署の本体は国際線旅客ターミナルの直ぐ横にある税関・Customs、入管・Immigration、検疫・Quarantine が入居している事務所棟──CIQ棟に入っている。建物同士は二階の渡り廊下で繋がっているが電子錠付の自動ドアがあり、行き来するには身分証明書となるICカードが必要だ。安全性から事前に渡すことは出来ないので、初日の今日はCIQ棟から入ることになっていた。

 槌田は床に描かれた案内に従って二階行きのエスカレーターに乗る。京浜急行の駅は地下二階、そこから地上二階まで一気に登るだけに結構な時間を要する。九時半からの朝のミーティングの前に、様々な登録を済ませなくてはならないので、受付に九時という約束だ。槌田は腕時計で時刻を確認する。時刻は八時五十二分になろうとしていた。時間の余裕は十分にある。

 二階の到着ロビーはすでに人で溢れていた。東京国際空港は二十四時間空港で、十八カ国三十一都市から週に七百九十便、単純に日割りすれば一日百十便強が就航している。曜日と時間帯によって多少差はあるが、それでもまったく到着便がない時間帯などない。今まさに到着ロビーへの自動ドアから到着客が列を成して出て来た。横目で見ながら一階に下りるエスカレーターに乗る。一階のエントランスプラザは思っていたよりも殺風景だった。店舗はエアローソンのみで、あとは数列イスが列んでいるだけだ。車利用者しか使わないし、旅客がここに長時間いる必要もないだろうから、ある意味驚くべくもないのだろう。

 自動ドアから建物の外に出て左に進む。目の前に薄いグレーの四角い箱のようなビルが見えた。入り口の塀に黒字で羽田空港CIQ棟とある。門を通り抜けて建物の中に入ると、受付前にはすでに英が待っていた。

「おはようございます」

 にこやかに言われて、槌田も返す。空港や港等の勤務の税関職員は制服勤務だが、調査部を含む本関勤務は私服勤務となる。なので英も槌田も私服のスーツ姿だ。警視庁でもスーツ着用だった。警視庁の花形と言われる刑事部も組織犯罪対策部も皆スーツでの勤務だ。けれど英を見ると同じスーツ着用でも違和を覚える。警視庁ではスーツは数年に一度支給される。もちろんそれでは賄いきれないので個人で予備を買うが、どちらにしても基本は紺か濃いめのグレーだ。公務員だからなのか私服の税関員のスーツも紺やグレーが多い。だが同じグレーでも警察ではほぼいない明るいグレーも見かける。目の前の英のスーツも黒よりは白よりの明るいグレーだ。

 鼻梁が高くたおやかな印象すら受ける顔立ちにフレームなしの眼鏡で細身の身体という見た目と、物腰の柔らかさも合わさって英は国防を担う公務員にはまず見えない。

「まずは関係各位に挨拶と事務手続きを。九時半から旅具のミーティングです。それでは、よろしくお願いします」

 言い終えて丁寧に頭を下げる英に、「もっとフラットにお願いしますよ。同僚なんですから」と槌田は返す。

 出向して八日目の自分はまだ何も分かっていない新人だ。完全に新人ならばさておき、四十手前の警察からの出向者なだけに、扱い方が難しいのも仕方ない。けれど、これから二年間は税関職員だ。しかも英とは年齢も一緒だった。

「そうですよね、すみません」

 申し訳なさそうに英は答えると、到着したエレベーターのドアを手で押さえて、槌田に先に乗るよう手で促した。

 こういうのだよ、と槌田は思い、わずかに眉を寄せる。

 槌田の所属する調査部検察部門は十五係あり、一係は係長と係員二名ずつの四人で構成されている。ただし係長と係員はペアにはならず、一つの事件ごとにクロスで担当することになっている。槌田の異動時にもう一人の係長の杉崎(すぎさき)と係員の藤崎(ふじさき)がコピー商品密輸入事件を担当していたため、英が槌田と組むことになった。なので出向して以来、ほとんどの時間を英とともにしている。七係にいる二年間、英と杉崎の両名は槌田にとっての相棒だ。信頼関係を早く築かなくてはと、昼食時間もほぼ毎日同席して英との距離を詰めようと槌田は努力した。同年齢、独身、家族構成は両親と弟、一人暮らし、旅行会社から転職、羽田税関支署の旅具通関部門から本関調査部に異動。趣味は特になし、休日の過ごし方は映画や海外ドラマ鑑賞や読書など、基本的な情報を得ることは出来た。けれどまだ英本人の人となりはつかめていない。理由は英の妙に丁寧な物腰もある。何度か気を遣わないで欲しいと頼んだが、未だ改善されていない。

「前職で添乗員をしていたために身に染みついてしまった一種の職業病ですね、すみません」と言われては仕方ないかとも思う。だがお客様扱いをされているように感じて、どうにも落ち着かない。

「あ、すみません」

 表情から察した英が、また頭を下げて謝罪する。槌田が口を開く前に「ああ、まただ。本当にすみません」と、さらに謝罪した。押さえたままのエレベーターのドアが閉じようと動き、がしゃんと音を立てる。

 ──きりがない。

 諦めた槌田は、頭を下げながらエレベーターに乗り込んだ。

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日明 恩(たちもり・めぐみ)

神奈川県生まれ。日本女子大学卒業。2002年『それでも、警官は微笑う』で第25回メフィスト賞を受賞しデビュー。他の著書に『そして、警官は奔る』『埋み火  Fire’s Out』『ギフト』『ロード&ゴー』『優しい水』『ゆえに、警官は見護る』など。

◎編集者コラム◎ 『見えない目撃者』豊田美加
井上義和『未来の戦死に向き合うためのノート』/戦争体験者が総退場する時代の「戦争」に向かい合う