◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第1話 Welcome to Japan〈前編〉

◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第1話 Welcome to Japan〈前編〉

警視庁から東京税関に出向した槌田。羽田空港での研修が始まった。

 壁はパーテーションをはめ込んでいるだけで天井は開いているし、そもそも壁自体が薄い。中で大声を出そうものなら、会話の内容は外に筒抜けになるだろう。

「アウトの場合、壁の向こうに移動となります。つまり、調査部の担当案件ですね」

 座学で学びはしたが、こうして現地で説明されるとよりはっきりと理解出来た。そのとき疑問が湧いた。

「それ以外は?」

 禁止物の密輸犯は調査部案件だが、税関の重要な職務である税の徴収に関わる違反、すなわち未申告の脱税についての話がまだだった。

「それ以外、ああ、脱税ですね。摘発したら税額を算出して支払って貰います。払えない場合は預かって後日納付して貰います。とにかく税金を納めない限り物を渡すことはありません」

 きっぱりと英が言った。

 当然だ。槌田ももちろん分かっている。聞きたいのはそれではない。口を開く前に英がああ、という顔をしてまた話し出した。だが出て来たのは「支払い拒否で現物放棄の場合もありますが」だった。

「そうじゃなくて」

 英が怪訝な顔になった。一言で表すのなら「?」だ。

「たとえば金やブランド品とか」

 日本に入国する際、購入した物の合計額が免税限度額の二十万円を超えた場合は、申告してその物ごとの関税率に従って納税しなければならない。金やブランド品は輸入禁止物ではない。だから正しく申告して納税すれば国内に持ち込める。けれど申告せずに納税を免れようとする密輸犯は後を絶たない。

 金を例にすると一キロ、相場で五百万円相当を輸入した場合、納税額は四十万円になる。申告せずに密輸すれば四十万円納税せずに済む。せずに済むと言うと聞こえが良いが、言い換えれば脱税だ。自覚なく金塊一キロが突然スーツケースに入っていたり、まして身体に隠し持つことなど、まずあり得ない。自覚のうえで出国前に準備をした、つまり計画的な犯行だ。ならば、みつけた、納税させた、で終わりとはならないのでは? と、槌田は思っていた。

「罪に問うのは悪質な場合ですね。あとは再犯」

 ならば初犯は罪には問わない、見逃すということだ。今度は自分が「?」な表情になったのを槌田は自覚する。

「例えとして正しいかは分かりませんが、私個人としては万引き初犯を全員逮捕しないのと同じ感覚だと思います」

 逮捕され刑が決まれば前科者となる。そうなれば、のちの人生に様々な制約が出来てしまう。なので万引き、ことに児童の場合、初犯は厳重注意のみで逮捕しないのはよくあることだ。すべて逮捕立件していては、とてもではないが手が足りないというのが実情ではあるが。

 とはいえ、児童が店内に入ってから出来心で数百円のお菓子を盗んだのと、そこそこの大人が密輸入して数十万の脱税をしようとしたのを同じ初犯として扱うのはどうかと槌田は思う。

「政府が観光立国日本を打ち出してますしね。あまり厳格過ぎると人気が落ちるからというのもあるらしいですが。財務省が大幅に罰金を引き上げるので、そのあとは減っていくんじゃないかと期待しています」

 金やブランド品の密輸に対する罰則は、消費税法・地方税法・関税法によって定められている。現行法では、消費税法・地方税法違反の場合、十年以下の懲役および一千万円以下の罰金、脱税額が一千万円を超える場合には脱税額まで。関税法違反の場合、無許可輸出入等の罪にあたり、五年以下の懲役および五百万円以下の罰金となっている。

 だが近年の金の密輸の増加に財務省は罰金の引き上げを予定している。決定後は無許可輸出入等の罪の罰金はそれまでの倍額の罰金一千万円以下(貨物の価格の五倍が一千万円超の場合、価格の五倍まで)に、密輸品譲受等の罪は現行では罰金三百万円以下が五百万円以下(貨物の価格の三倍が五百万円超の場合、価格の三倍まで)に引き上げられる。

 密輸は利幅が大きいからこそ起こる犯罪だ。罰金額が上がり、摘発されれば損をする。それが周知されれば密輸も減るかもしれない、ということだ。罰金が高いから密輸はしないというのは根幹が違うのでは? と槌田は思う。そもそも密輸はしてはならない犯罪だ。

「罰金と言えば、カナダでは脱税の罰金は当日払いならば、半額になるんだそうですよ」

 滞納した場合、利息が上乗せされるのは理解出来る。だが当日払いならば半額になるのは、さすがに理屈が分からない。

「理由は私にも分かりません。すみません、話が脱線しました。そろそろソウル便の客が来るのでこちらへ」

 訊ねる前に英が移動し始めた。槌田も後に続く。到着ゲートに向かって壁際を英は進む。

「銀行はみずほ一行のみです。納税のためのお金が必要な場合は、こちらを案内しています。そして出口の手前横が税関の待機場所です」

 入国ロビーへの最後の自動ドアの横の待機オフィスに到着する。広いカウンターの奥に一列机が列んでいて、すでに制服姿の旅具検査官が着席していた。最奥の壁には巨大なディスプレーが二つ取り付けられていた。点灯している右側のディスプレーには到着便が表示されている。

「他の到着便一覧とは違う情報が表示されているんですけれど、何だか分かります?」

 突然訊かれて、槌田はディスプレーを注視する。

 左からエアラインの略語、便名、到着時間、出発場所。ベルトは荷物受け取りのターンテーブルだろう。だがその横のJPとFPが分からない。二桁か三桁の数字が表示されているが、JPが多い便もあればFPが多い便もある。

「あのJP、FPですか?」

「正解です。JPは日本人、FPは海外のお客さんの人数が表示されています」

 乗客の情報が多い方が検査の参考になるということだろう。

「到着しましたね」

 英の声に振り向くと、ソウル便からの渡航客が入国審査を終えてターンテーブルに近づいて来ている。旅慣れた客の何人かは一足先にカートを取りに向かった。税関エリア内は続々と訪れる客であっという間に溢れかえる。そんな中、早くも手荷物だけの背広姿の男が数名、検査ブースへと進んだ。かすかに会話が聞こえてくる。出張帰りの日本人のビジネスマンらしい。慣れているらしく男はボストンバッグと斜めがけのバッグを検査台の上に載せる。怪しいところは何もなかったらしい。バッグは開けられることなくまた男の手に戻った。男はすぐさま足早に自動ドアからロビーへと出て行った。あまりにあっけなく入国したのを見て、槌田は鼻白む。

「アジア便は常連の客がいますから。今の方もそうでしょう」

 別段驚くでもなく英が言う。そんな人もいるのだなと思っていると、がたんと音が鳴ってターンテーブルが回り始めた。様々な色と形の荷物がコンベアーの上に載って流れて来た。待ち構えていた客が自分の物を見つけて引き下ろしはじめる。荷物を取った客たちは我先にと税関の検査ブースへやって来た。

 旅具検査官は、渡航客に応じて日本語、英語、先方の母国語を使い分けて客に質問をする。渡航の目的は観光か仕事か、どこに行くのか、何泊どこに泊まるのか。きちんと目的を持ってやって来た客はつたなかろうが淀みなく答える。答えられない場合は、要注意として荷物と身体検査を徹底する。

「おっと、あれは何かありそうだな」

 ターンテーブルを見ながら英が呟いた。視線の先に目をやると、カートの上に荷物を載せ終えた若い男がいる。荷物が多い客は何かしらの申告をしている可能性が高い。内容が正しくそれに伴った納税をすれば問題はない。けれど、申告内容が虚偽の場合もある。英が注目した男はスーツケースにボストンバッグ一つと荷物は決して多くない。何が引っかかったのかが槌田には分からない。カートを押す男は、一瞬止まった。だがすぐにカートを押して進み、九番ブースの列に列んだ。

 検査が始まってまだ間もないため、五番から十番までのブースはどこもさほど列んでいない。男の進行方向に一番近いブースは六か七番だ。しかしあえて九番に進んだように槌田には見えた。

「九番を選びましたか?」

「さすがです。六、七番が男性検査官だから避けたんでしょう」

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日明 恩(たちもり・めぐみ)

神奈川県生まれ。日本女子大学卒業。2002年『それでも、警官は微笑う』で第25回メフィスト賞を受賞しデビュー。他の著書に『そして、警官は奔る』『埋み火  Fire’s Out』『ギフト』『ロード&ゴー』『優しい水』『ゆえに、警官は見護る』など。

◎編集者コラム◎ 『見えない目撃者』豊田美加
井上義和『未来の戦死に向き合うためのノート』/戦争体験者が総退場する時代の「戦争」に向かい合う