◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第1話 Welcome to Japan〈前編〉

◇長編小説◇日明 恩「水際守護神S」──第1話 Welcome to Japan〈前編〉

警視庁から東京税関に出向した槌田。羽田空港での研修が始まった。

 

「失礼します」

 英の声に続けて槌田は会議室に入る。室内の制服姿の検査官──旅具通関部門担当官の視線が集まる。

 東京国際空港の利用客は一日で五万人を超える。旅具通関部門はすべての出入国者とその荷物を検査するため、羽田税関支署の職員全体の三分の二の二百人にのぼる。勤務は朝の十時から翌日の朝の十時までの二十四時間交替となっているが、始業前に勤務配置の確認と前担当班からの引継ぎ、さらに班ミーティング等を行い、終業後の片付けも含めると二十五時間を超える。その一日を十六名から十七名で一班を作り、三班で担当している。

 ミーティングは班ごとに行われていて、室内には上席に三名、向かい合わせに列ぶ三列の机に十四人座っていた。うち女性は六名で、ほとんどが二十代に見える。

 集まった視線はすぐさま消えた。一瞬のことだったが、頭の先から足下までくまなく、まるでスキャンされたように槌田は感じた。

 最後尾の席に移動しつつ、真面目な顔で前を向く女性職員たちの横顔を盗み見る。皆若く可愛らしく制服でなかったら学生に見える者すらいる。けれどさきほど槌田に注がれた視線は鋭く、まるで自動車警邏隊員、それも職務質問のベテランのようだった。

「それでは始めます」

 事前に挨拶済みの班長の栗原(くりはら)が着席したまま話し出す。

「本日は本関調査部の英君と警視庁から出向してきた槌田君の二名が研修で同行します」

 英が席を立って一礼する。あわてて槌田も席から立ち「槌田将人です。よろしくお願いします」と頭を下げた。栗原が「昨日の摘発はコピー商品が十七件、脱税が二十四件」と続けるのを着席しながら聞く。

 昨日一日で四十一件の犯罪行為があったことを聞かされる室内の誰からも何も反応はない。

「それでは各員、よろしくお願いします」

「本日の重点検査はANAの◯便、エミレーツ航空 × 便」

 航空会社と便名を言われても槌田にはぴんとこない。横から「ジャカルタからとドバイです」と英が小声で教えてくれる。

 わざわざ便名を挙げたくらいだから、すでに何か情報が入っているということなのだろうか。だが訊ねる前に栗原の「上海、北京、ソウル、ハノイ、ホーチミン便のコピー商品および金、その他、薬物及び危険物も厳重注意で。それではよろしくお願いします」の声に、室内の検査官全員が「よろしくお願いします」と返してそのまま席を立ち、次々に部屋を出て行った。ミーティングが終わったのだ。あまりのあっけなさに槌田は驚く。

「十時五分にソウル便が到着します。では、行きましょう」

 英に言われて、槌田もあわてて席を立つ。

「栗原班長があげた二便ですが、どちらもツアー客ではない個人の客が多いのでしょう。ツアーの旅行者よりも個人で来日する者の方が密輸犯が多いので」

 歩きながら英が説明してくれる。

「特に滞在一日未満の客は要注意です」

「経由で、ってことですね」

 コロンビアやペルーなど麻薬や覚醒剤の原料となる大麻が多く生産されている国からの直行便の税関検査は当然厳しい。密輸手口として一度他の国を経由するケースが増えている。その場合、経由地に何泊も宿泊しない。飛行機代を抑えるための乗り継ぎのケースもあるが、十分に注意を払う必要がある。

「すでにご存じの内容ですが、コピー商品は中国、韓国、台湾からが多いですが、最近ではインドネシア、フィリピン、ベトナムとアジア全体に広がっています」

 生産国の拡大に伴ってのことだろうと槌田は思う。

「結局、全便重点検査ですね」

「ですね」

 英がにこやかに同意する。

 話しながら国際線旅客ターミナルに続く自動ドアへと二人は進む。

 CIQ棟から国際線旅客ターミナルへと繋がる廊下には窓がない。すでに館内案内は終えていた。壁も天井も白いが、天井のライトの数は決して多くない。なので廊下は薄暗い。さきほど案内された洗浄室に差し掛かる。薬品やウィルスなどを浴びてしまった際に使用するための施設だが、幸いにも国際線旅客ターミナルが再開されて以降、今まで一度も使われたことはない。その隣には被疑者用のトイレと検査室があり、廊下の最奥の自動ドアの向こうが国際線旅客ターミナルの税関エリアだ。

 英が身分証を壁のスキャナーにタッチすると大きな金属製の自動ドアが開いた。足を踏み出した槌田の視界が広がる。次の到着便の客が来るまでまだ時間があるのだろう、今は検査を待つ渡航客の姿はなく、税関エリア内はがらんとしている。

「エリア内にはあそこから入れます。ドアはスキャンしないと開きません」

 右手で指し示された先には銀色の低い壁があった。システムとしては駅のホームドアと同じだろう。ただしこちらは身分証がないと開け閉めは出来ない。

「でも、調査部が入ることはあまりないですけれどね」

「応援要請はないんですか?」

「税関エリア内は旅具検査官の管轄ですから。摘発までは旅具検査官、調査部の仕事はそのあとです」

「でも、被疑者が逃げたりとか暴れたりとか」

「まずないですね。逃げ回ったところで、どこにも出られませんし。暴れる者もまずいません。刃物や武器になる物は飛行機内にそもそも持ち込めないので、そういう面での心配もありません。たまに機内で飲み過ぎて酔っ払っている人もいますが、密輸を企てる者はそもそも飲み過ぎたりしないので」

 確かにと、槌田は納得する。

「ああ、でも以前いましたよ。自分と日本在住の友達用にマリファナを隠し持っていたアメリカ人男性で、機内で酔っ払ったあげく到着時にぐっすり眠り込んでいて、キャビンアテンダントに起こされたときに、『俺の鞄は? マリファナ入りの鞄は?』と、自白したケースが。すぐさま連絡が来て、機体出口まで迎えに行って、そのまま検査室へ直行です」

 白い柱にパーテーションをはめ込んだ壁で作られた小部屋の方に向かって進む英について歩きながら「そりゃ間抜けですね」と槌田は返した。

「そんなご陽気な人は多くはありませんが。こちらが検査ブースです」

 英は白い小部屋を通り越してから立ち止まって言う。

「手前から奥に向かって一番から十七番。一番はエアラインのクルーと外交官用、残りが渡航客用です。通常は五番から十番の稼働で検査を行います。全身用の金属探知機が二つのブースごとに出口側に設置されていて」

 以前に旅具検査官だった英の説明は淀みない。見ると、人が通れる長方形の枠のようなものが設置されている。

「ハンドタイプのものは、ブースとブースの間のキャビネットにあります。あの中には各種の申請書類も入っています。二つのブースで使う都合上、引き出しはどちら側からでも使えるようになっています」

 効率を考えての特注品だろう。たかがキャビネットでも、やはり空港は違うと槌田は思う。

「もう一つ共有物がありました。さすまたです」

 U字型の金具に長い柄が付いている相手の動きを封じ込めるための武具だ。警察にもあるし、逮捕術の訓練で使用したこともある。けれど職務中に使ったことは一度もない。

「念のために配備してありますが」

「使ったことはほとんどない」

 さきほどの話からして、先回りして槌田は言う。頷いて英が肯定した。

 すでに旅具検査官は担当の検査ブースに待機していた。五番から十番までのブースのライトが点けられている。

「ただし、午後二時から四時の到着便のピーク時や、様々な事情で混み合ってしまって、荷物検査の待機列がターンテーブル近くの柱まで延びたらブースを増やして対応します。それとすみません、ちょっと戻っていただいて」

 通り過ぎた白い小部屋に英が向かう。手動のドアを開けて「どうぞ」と槌田に促した。「こちらが検査室です。外のカウンターで再検査が必要となった場合、まずはこちらに誘導して再検査をします。荷物用のX線検査や薬物の試薬検査などもこちらで行います。こちらと十七番ブースの横の二カ所です」

 ここがよく言われる「別室に連れて行かれる」の別室かと、槌田は見回した。

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日明 恩(たちもり・めぐみ)

神奈川県生まれ。日本女子大学卒業。2002年『それでも、警官は微笑う』で第25回メフィスト賞を受賞しデビュー。他の著書に『そして、警官は奔る』『埋み火  Fire’s Out』『ギフト』『ロード&ゴー』『優しい水』『ゆえに、警官は見護る』など。

◎編集者コラム◎ 『見えない目撃者』豊田美加
井上義和『未来の戦死に向き合うためのノート』/戦争体験者が総退場する時代の「戦争」に向かい合う