芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 第19回】

 降り注ぐ弓矢を勢いのみでかいくぐり、渡河し終えて素早く河岸に陣を構えた義龍の軍から、義龍の気力胆力に呼応して気持ちの収まりがつかなくなった長屋甚右衛門が、道三の軍勢に向けて大音声を放った。
「山城守殿旗本衆に告げる。長屋甚右衛門、一騎打ち所望。我と思わん者はこの戦の端緒として、この甚右衛門と相戦うべし」
 頭二つほども衆から飛びだした巨軀の挑発に、柴田角内が動いた。道三は角内の袖を引いた。
「万が一にも、おまえを喪いたくない」
「御屋形様は拙者が負けるとでも」
「そういうことではない、そういうことではないのだ」
 角内は道三の瞳が幽かに潤んだのを見てとって、感極まった。泣き笑いの表情で、道三に囁いた。
「もう、呼応致してしまいましたがゆえ」
 言葉が続かず、深々と頭をさげると、角内は兜を脱ぎ、自慢の長刀を掲げて仁王立ちする長屋甚右衛門の前に進んだ。甚右衛門が見おろして慇懃に問う。
「名はなんと申す」
「どのみち拙者が貴殿の首を戴くがゆえ、名乗る必要もござらぬ」
 甚右衛門が熱りたつ。上背でははるかに劣る角内だが、首や肩をまわしてほぐして、余裕綽々である。甚右衛門は角内の長刀を一瞥し、槍を投げ棄てると、兜も脱いで地に叩きつけた。小砂利が跳ねた。静寂が訪れた。
 向きあった。
 青眼に構えた甚右衛門の切先は、一騎打ちを申し出るほどであるから青眼の謂われどおり見事に角内の目を捉えていた。
 同じく青眼に構えた角内の長刀の切先は小刻みに動いている。
「ほれ、怯えが切先で揺れておるぞ」
「なんの。退屈ゆえの貧乏揺るぎのようなもの。気になさらず」
 次の瞬間、二人が間合いを詰めた。
 ぎゃりん──。
 鋭い金気の音が響き、燦々たる陽射しにもかかわらず打ち合った刀身から火花が散るのが見てとれた。
 角内と甚右衛門は切先を交えたまま力比べのていである。
 ふうぅ、ふうぅ、ふうぅ、荒い息は甚右衛門であった。上背にものをいわせて角内にのしかかる。角内の膝が折れ曲がりそうだ。
 角内は上目遣いで力みが過ぎる甚右衛門の様子を見てとり、頃合をはかり、大きく肘を張ると自らその懐に飛びこんでいった。甚右衛門はつっかえ棒を外されたがごとくで、足底が地面を離れた。
 まずは平衡を乱して密着してきた甚右衛門の顎をふちがしらで砕き、甚右衛門の刀身が頭に触れぬよう角内は頭上に刀を保ち、そのまま甚右衛門を膝で蹴倒した。
 暴れまわる甚右衛門は、それでも首を挙げられまいと必死で砕けた顎を引いている。首以外でとどめを刺さねばならぬ。甚右衛門の肩口に足をかけ、鎧の形状を精確に見極め、腋窩わきのしたのあたりに刀身を挿しいれた。河原に血の帯が拡がった。さらに抉ると、徐々に甚右衛門の動きが止まった。
 短く息をつき、角内は思案した。物打のあたりを欠けさせてしまったが、これからが戦の本番である。これ以上、愛刀を疵物にするわけにはいかぬ。横たわった甚右衛門の首を一気に切り落とすと、河原の小石に切先を当ててしまいかねぬ。
 角内はのこぎりを扱うように刀を用いて慎重に甚右衛門の首を切開し、落としていく。最後は刀身を守るために刀を引き、髷をつかんで素手で甚右衛門の首を千切りとった。
 切先に甚右衛門の首を刺し、高々と掲げると、道三の軍勢からうねりをともなった怒濤の歓声が沸き起こった。角内はそれを背に、苦虫を嚙みつぶしたような義龍に優雅に一礼し、ゆったり踵を返すと首を刺した刀の棟を肩にあてがって、引き千切ったせいで乱れに乱れた甚右衛門の首の切れ端を揺らせながら道三だけを見つめつつ、陣にもどった。
 直後、義龍、道三、双方、全軍突撃を命じた。長良川北岸は、一気に人馬判然とせぬほどの大乱戦の場となった。
 義龍は父の底力に驚嘆した。
 一万七千対二千である。だが、優勢に戦いを進めているのは道三の軍勢である。
 押しては引き、衝いてはもどしと融通無碍にして柔軟自在に動く用兵に、義龍の将兵は翻弄されるばかりであった。
 義龍はあらん限りの声を張りあげて自軍を叱咤した。道三は無表情に小班に分けた将兵に采配を振る。
 無数の骸が転がり、河原が両軍の血糊でべとつくようになり、鴉どもが馳走を求めて集まってきた。
 鴉に啄まれている骸のなかには自ら義龍の軍勢に切り込んで孤軍奮闘、義龍に肉薄し、あと一歩というところで力尽きて果てた柴田角内の変わり果てた姿もあった。
 さすがに多勢に無勢、道三の眼前にまで義龍の兵が迫ってきた。冷徹に指揮を執っていた道三であったが、功をあせる義龍の将兵が殺到し、自ら刀を抜いた。
 斬った。
 斬った。斬った。斬った。
 斬った。斬った。
 斬りまくった。
 幾人斬り殺しただろうか。
 血糊だけでなく、人脂で刀身が覆われ、刀が使い物にならなくなった。
 近習も消え去って、まさに独りになっていた。返り血で化粧した道三は、刀を支えにして大きく息をついた。

   *

 ──くちばみが真の我が子に負けることそれ自体はともかく、油売りが土岐家の正統とやらの看板に負ける。土岐家の諸々が俺よりも遥かに優れておるならば、それは受け容れざるをえないが、実際は愚鈍蒙昧ばかりではないか。耐え難いものだなあ。
 まあ、そこに我が子を押し込めることができたのだから、よしとすべきか。
 ああ──奈良屋にとどまり、油を売っていたら、さぞや安穏な人生を送ることができたであろうな。まさに、油を売る面白可笑しい日々を過ごすことができたであろうに。
 ちんまりした結實ゆいの膝枕で、手指に沁みた荏胡麻の油の匂いを嗅ぐ。結實の指先が俺の鼻筋をさぐる。
 なにが美濃だ。
 なにが、天下だ。
 父よ、峯丸みねまるは物心ついてから、あなたの期待に応えるために必死に足搔いてまいりました。
 それでも、父よ。あなたと油を売って歩いた日々、峯丸は幸せでありました。
 されど峯丸は、あなたの期待に添うために気の休まる日とてございませんでした。必死でありました。
 長じて、あえて父を、あなたを無視するかのように振る舞いも致しましたが、それは必死の裏返し──。
 父よ。峯丸は、あなたの期待に応えたかったのです。
 父よ、峯丸は、多少なりともあなたの期待に応えることができましたでしょうか。どうにも心許ないのですが、これが、ここまでが峯丸の精一杯でございました。
 ──母のない子は、父にすがって必死で生きてまいりました。あげく母のない子は、どうやら自分の子に命を差しだすことになりそうです。
 母よ。なぜ、なぜ、峯丸を棄てたのです。なぜ、峯丸を──。

   *

 長井忠左衛門道勝は道三の背後から大きく飛び、組み付いた。
 思いに耽っていた道三は、迂闊にも刀を取り落としてしまった。
 忠左衛門は、できうるならば生け捕りにせよと義龍から命じられていた。だからあえて刀を用いることを控え、格闘に持ち込んだのだった。
 それを知らぬ小牧源太が、揉み合う二人に近づき、道三のすねを薙いで切断し、身動きできなくして、肩口をざっくり斬りおろした。
「なにをするか」
 道三の血飛沫を浴びた忠左衛門が怒声を挙げ、源太ににじり寄った。
「なにを、ときたか。山城守に伸し掛かられていたお主を助けたのよ」
「よけいなことを──」
 だが忠左衛門は道三に肋をほとんど折られていて、動きが鈍っていた。源太はその隙を突いて道三にとどめを刺した。
 激怒する忠左衛門を尻目に、源太は道三の首を落とし、つかみあげ、膝に安置して、その鼻と片耳を削いだ。首実検のときに、自分が道三の首を挙げたという証しとするためであった。
 道三の死により、長良川の戦いは幕を閉じた。わずかに残った道三の兵たちは即座に刀を引いた。俺が死んだら間髪を容れず投降すべし──と常々、道三より命じられていたのであった。死ぬな──と命じられていたのであった。

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