芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第37回】建物が主役の小説

芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義!連載第37回目は、柴崎友香『春の庭』について。写真集に収められた家を軸に時代と人間を描いた作品を解説します。

【今回の作品】
柴崎友香春の庭』 住宅を軸に時代と人間を描く

写真集に収められた家を軸に時代と人間を描いた、柴崎友香『春の庭』について

最近は紙の本を出す時の契約書に、電子書籍についての条項が併記されることが多くなりました。これは、紙の本を出した途端に、べつの出版社から電子版が出ることを防ぐためという意味合いもあるのですが、紙の本が出たあとほとんど間を置かずに電子版が出るということも、珍しくなくなりました。便利になったと思いますが、これからの若い読者は、端末で本を読むのがあたりまえになるのかなと思うと、ちょっと怖い気がします。

最近は高校生向けの電子辞書に、文学の名作(著作権の切れたもの)が百編くらい入っていて、そういうもので文学と初めて接する人がいるくらいですから、本を読むという生活スタイルにも大きな変革が起ころうとしているようですね。

写真集の中の家への興味

前置きはこれくらいにして、柴崎友香さんの『春の庭』です。古びたアパートに住む若い男と、少し年上の女をめぐって話は展開していきます。この年上の女は、若いころに見たある有名人夫婦の新居を撮影した写真集のことが忘れられない、という設定になっていて、実はその新居がいまは古びた住宅として賃貸に出されているのですが、その家がアパートの隣の敷地にあるのです。というか、その家のすぐそばだということで、女はそのアパートに移ってきたのですね。ベランダから背伸びをして隣の庭をのぞきこんでいる怪しい女がいる。この女は何なのだろうと、若い男は興味をもち、しだいに親しくなって、やがてその女のこだわりを知り、男の方もその家のことが気になってきます。で、ふとした偶然で、その家を借りて住んでいる主婦と親しくなり、家の中を見せてもらうという、簡単にいえばそんな話です。

この若者はとりあえず何かして働いているのですが、その仕事に充実感を覚えているわけではなく、でもそのことに不満を感じているわけでもないという、いいかげんな人物なのですが、こういう若者が増えているというのが、現代の日本の特徴なのかもしれません。年上の女の方は、その写真集で見た家にこだわりをもっているという点では、何か目的をもって生きているということになるのでしょうが、その家にこだわったところで何がどうなるものでもないので、やっぱり人生そのものに目標みたいなものがあるわけではないのです。

でも明確な目標をもって生きている人なんて、現代では少数派なのかもしれません。戦争や貧困に悩まされている国の人々は、とにかく平和で食べるものに不自由しない暮らしを送りたいという切実な願いをもっているはずで、隣の家に興味をもつなどというのは、呑気な話なのかもしれませんが、この作品を読んでいるうちに、読者のぼく自身も、その写真集の中の家に興味をもつようになりました。

住宅を描くことで、時代を描く

この小説の主役は、この家なのですね。すごい豪邸というわけではありません。ちょっとした有名人の若い夫婦が、思いつきみたいに建てた注文建築で、おしゃれな感じの、夢のような住宅ではあるのですが、そのかつての若夫婦の生活はすでに破綻していて、住宅も古びて、賃貸に出されているのです。つまりそれは、過去の夢であり、廃墟に等しい場所なのです。壊れた夢。過去に一瞬だけ輝いたことのある夢の残骸……。この家がとても魅力的です。そういえばぼく自身も、東京に出てきてから、4回ほど引っ越しています。いまが5軒目の住宅です。初めの2軒は賃貸のマンションでしたが、その次の2軒は注文住宅で、いま住んでいるところは分譲マンションです。

そんなふうに引っ越しをするのは、そのつど、事情があったからです。子どもが生まれる、育っていく、そしていなくなる、ということが主な理由です。こちらがだんだん年老いていくということも、関係しているでしょう。幸い生活が破綻するということはなかったのですが、それでも、夢のマイホームみたいなものが、やがて古びて、自分の生活に合わないと感じられるようになるというのは、寂しいことです。それぞれの住居に、想い出があります。想い出には、悲しみがつきまとっています。失われた夢といったものが、ぼくにもあります。これはぼくの個人史に関する感慨なのですが、住宅というものは時代とともに推移していくものなので、住宅を描くということは、時代を描くことになるのです。

坪内逍遙がヨーロッパの「近代小説」というものを紹介した時に、小説の原理として「世相と人情」ということを挙げました。いまの言葉でいえば「時代と人間」ということでしょう。この作品は建物を主役にすることで、見事に「時代と人間」を描いています。

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初出:P+D MAGAZINE(2018/02/08)

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