芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第42回】心温まるリアリズムの穏やかさ
芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義!連載第42回目は、父の死と初恋を螢の美しい輝きの中に描いた、宮本輝『螢川』について。心温まるリアリズムの穏やかさを描いた作品を解説します。
【今回の作品】
宮本輝『螢川』 父の死と初恋を螢の美しい輝きの中に描く
父の死と初恋を螢の美しい輝きの中に描いた、宮本輝『螢川』について
このところ新しい作品を読んできたので、たまには古い作品を読んでみたくなった。それで『螢川』でも読もうかと思ったのだけれど、ふと気づいてみると、この作品は『僕って何』の翌年の受賞作なのだね。ということはぼくの方が古いということですね。それはともかく、その時の受賞パーティーの会場に行くと、なじみの編集者から、宮本輝さんの奥さまは三田さんのお知り合いだそうですよ、と言われて、宮本さんのことも知らないし、奥さんも知らないけど、と思いながら挨拶に行くと、小学校の顔なじみでした。
小学校から大学まである私立校で、ぼくは中学のあと公立高校に移ったのだけれど、奥さんは大学まで行って、そこで宮本さんと出会ったというわけです。昔のことだから、私立の小学校に通うというのは、いいところのお嬢さんという感じなのだけれど、幸か不幸か大学まで進んだら作家志望の若者と出会ってしまったのだね。ちなみにぼくの奥さんは高校の同級生です。幼なじみというのは、なかなかいいものです。
コテコテの自然主義リアリズム
さて、『螢川』は中学生の淡い恋を描いています。といってもラノベによくあるような「壁ドン」ふうのラブコメディーではありません。格調の高い文章で、風景がとても美しく描かれています。昔の小説なのでいま読むと少し文章が硬いという感じがしますが、当時読んだ時にも、恐ろしく古くさい文章だな、という印象をもちました。
もちろん読んだ時は奥さんが幼なじみだなどとは知らなかったので、知らない新人作家が出てきて、ぼくと同世代のはずなのに、まるで昭和初期のような自然主義リアリズムであるということに、軽い驚きを感じました。当時はアンチロマン風の難解小説か、おしゃれな若者ふうの会話小説か、時代の風俗をたっぷりと採り入れた作品か、とにかく「新しさ」がないと新人としてデビューできないのではという気がしていたので、こんな古くさい小説が新人賞をとるということに驚いたのです。
もっと驚くべきなのは宮本さんのデビュー作となった『泥の河』です。紙の本の文庫本でも、電子書籍でも、『泥の河』と『螢川』がセットになっていますので、両方とも読んでみてください。『泥の河』の方は小学生が主人公なので、もっとコテコテの自然主義リアリズムという感じがします。ここでいう自然主義というのは、美しい自然、というような自然ではなく、ありのまま現実、というくらいの意味で、しかもディズニー映画『アナと雪の女王』みたいなきれいなありのままの現実ではなく、どろどろの運河に浮かべた汚い船で売春をしている母、というような息のつまるような現実です。
でも読んでいると心が洗われる気がします。終戦直後の大阪の、むきだしの貧困が描かれているのですが、そんなところでも人間はけなげに生きていくのだと、励まされる感じがするのです。とにかくどん底の暮らしが描かれているので、それより下がない。だから人間は前向きに生きていくしかないのですね。
名作を書くコツ
この『泥の河』で太宰治賞(いまはない文芸誌『文芸展望』の新人賞です)を受賞した宮本さんが、受賞第一作として発表したのが『螢川』です。こちらは富山の田園風景が描かれていて、最後に螢がドサッと出てきます。でも作品の中心にあるのは貧困です。この作品の場合は、事業に失敗した父親というやや特殊な状況の中に貧困があるのですし、大阪と違って周囲には「美しい自然」があるのでまだ救いがある気がします。友人がいて、ちょっと三角関係みたいな感じになっていて、思春期にありがちな心の葛藤があります。とくにドラマチックに恋愛が進行するわけではないのですが、友人が不慮の事故で亡くなり、主人公は父親の死によって大阪の親戚のもとに引っ越すことになり、その初恋の少女とも別れなければならなくなります。
そこでラストシーンの螢です。大量の螢によって、彼女の姿がまるで発光ダイオードの電飾みたいに光っている。やりすぎではないかというくらいの感動的なラストシーンです。でも、これは螢がいてきれいだねというだけの話で、その後にハッピーエンドがあるわけではありません。主人公の貧困が解決されるわけではないし、女の子とは別れなければならないのです。この美しさの背後には、はかなさがあります。そして読み終えたあとには、じわじわと悲しみが胸に広がります。ああ、小説っていいものだな、という感動が広がっていくのです。これが自然主義リアリズムです。
どちらも名作です。さらに宮本輝は三十歳代で次々に名作を書きました。『幻の光』『錦繍』『優駿』……。どれもすごい名作です。名作を書くコツみたいなものを宮本さんは最初から知っていたようです。それは泣かせ所とか、盛り上げ所とか、小説を書いていく上での技術的なポイントを知り抜いているということで、まるで工芸品の作者が手に当たる素材の感触だけで名品を仕上げていくように、言葉にはできない手にしみついた技があるということですね。たやすく真似のできるものではありませんが、じっくりと何度も読み返していくうちに、その技を盗むことができるかもしれません。
自然主義の技法というのは、ただのアイデアだけで書ける実験小説とは違って、熟成させるためには年季が必要だということでもあるのですが、宮本さんは三十歳になったばかりの時期にこれらの名作を次々に発表したのですから、才能と努力によって短期間に身につくものだともいえるのではないでしょうか。
初出:P+D MAGAZINE(2018/04/26)