田久保英夫『深い河』/芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第72回】見事な文体と問題提起

芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義! 連載第72回目は、田久保英夫『深い河』について。軍馬の世話をする青年の苦悩を描く作品を解説します。

【今回の作品】
田久保英夫深い河』 軍馬の世話をする青年の苦悩を描く

軍馬の世話をする青年の苦悩を描いた、田久保英夫『深い河』について

ぼくは高校時代から小説を書いていたので、大学に入ったころには、将来は作家になると決めていました。芥川賞というのは、作家になりたいと思っている文学青年にとっては、重要な指標です。年に2回発表される受賞作を読んでみれば、自分が書いている作品のレベルを知る目安になります。田久保英夫の受賞は、ぼくが大学に入ったばかりのころだったと思います。すぐに読んでみたのですが、ショックを受けました。文体のレベルがものすごく高いのです。これはとても太刀打ちできないと、絶望的な気分になりました。でも、同時受賞の庄司薫の作品を読んで、少し安心したりもしたのですが。

この『深い河』という作品で描かれているのは終戦直後の状況です。米軍の雲仙にある駐屯地で、軍馬の世話をするアルバイトをしている学生が主人公です。昔は軍馬が貴重な戦力だったのですね。九州各地から馬を集めて米軍に納入しているブローカーのような怪しい獣医の手伝いをしていたのですが、その馬が伝染病にかかっていて、獣医は逃走し、主人公は獣医の助手をしていた女子学生と二人だけで、病気の馬の処分をしなければならなくなります。

そうした困難な状況に立たされた主人公の存在感が、密度の高い文体によって支えられています。その女子大生はボーイッシュな感じで、とても魅力的です。でも、話はロマンチックな方向には向かいません。終戦直後の時代状況そのものが、作品に遊びを許さない緊迫感をもたらしています。

超えなければならなかった「深い河」

タイトルの「深い河」というのは、駐屯所で語り合った若い米兵の言葉です。若者同士で、戦争について議論をしたのですが、日本人の主人公は、いわば安全地帯にいて議論をしているのですね。これに対し、米兵の方は、明日にでも戦場に送られるかもしれない(実際に彼はすぐにいなくなってしまいます)。その米兵が、いずれ自分も「深い河」を越えなければならない、といったことを言います。

それは朝鮮半島の戦場に赴くことを意味しているのですね。日本は多くの人命を失って敗戦したのですが、その結果、平和な国になりました。一方、戦勝国のアメリカの若者たちは、まだ戦争を続けなければならなかったのです。それは社会主義勢力から朝鮮半島の南半分を守ろうとする闘いなのですが、それは日本を守ることにもつながっています。かつては敵だったアメリカ人によって日本の平和が守られるということに、主人公は割りきれないものを感じています。読者だったぼく自身も、複雑な気持ちになったことを憶えています。

ただぼくがこの作品を最初に読んだころは、アメリカはベトナムで戦争をしていました。それはベトナムに進出していたアメリカ企業、つまりはアメリカの資本を守るための、利己的な闘いだと、当時のぼくには感じられました。アメリカの兵士たちは、資本主義の犠牲者だと、多くの学生たちがそういう考え方をもっていたように思います。当時のぼくと同世代の学生たちの多くは、反戦運動のデモに参加していました。脱走した米兵を支援するような運動もありました。

そのベトナム戦争は社会主義国の北ベトナムが勝利し、アメリカは撤退するしかなかったのですが、そのベトナムがいまは自由主義陣営に歩み寄っているようです。そういった事態の推移をどのように理解すべきなのか。この原稿を書くために作品を読み返しながら、改めて、あのころのアメリカはいったい何を守ろうとしていたのかと考えずにはいられませんでした。

理屈を抑え描写に徹した見事な構成

朝鮮戦争と呼ばれるあの戦争で、アメリカの若者たちが命をかけて闘ってくれなければ、ロシア軍は朝鮮半島全域を制覇し、その勢いで日本に攻めてきたかもしれません。当時の学生や文化人の中には、社会主義に希望を感じている人々もいたので、日本の中で内戦が起きていたかもしれないのです。いま読み返してみると、この作品は深い問題提起をもたらす秀作だと感じられます。発表された時に読んだ時よりも、もっと重要な問題をはらんでいるように感じられます。

作者は難しい理屈を提出するのではなく、残された病気の馬を処分するために、血まみれになっている主人公の姿を執拗に描きます。その追い詰められた主人公の頭上を、米軍機が飛んでいく。あの戦闘機は朝鮮半島に向かうのだと考えながら上空を見上げるラストシーンの主人公の姿が印象的です。

いま読み返して、改めて、この作品の文体の強度のようなものに、感銘を受けました。理屈を抑えて描写に徹した構成も見事です。歴代の芥川賞受賞作の中でも、かなりの水準の作品だと思います。この文体の強度については、最初に読んだ時から、ぼくは評価していました。田久保英夫という書き手に、畏敬の念を抱いていたといってもいいでしょう。

世田谷区に住んでいたころ、世田谷文学館の依頼で、小説の応募作の選考委員を担当したことがあります。二人の委員で選考をするのですが、その相手が、田久保さんでした。ぼくも作家になっていましたから、対等の立場で選考しなければならないと考えていましたし、ずっとあなたのことを尊敬していました、などということを口にすることも恥ずかしかったので、そういう気持ちは極力抑えていたのですが、数年ほど委員を務めたあとで、田久保さんは急に亡くなってしまいました。もう少し親しくなって、文学について語り合いたかったなと、いまは残念に思っています。

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初出:P+D MAGAZINE(2019/07/25)

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