大庭みな子『三匹の蟹』/芥川賞作家・三田誠広が実践講義!小説の書き方【第82回】哀しい新人類の物語

芥川賞作家・三田誠広が、小説の書き方をわかりやすく実践講義! 連載第82回目は、大庭みな子『三匹の蟹』について。異国での日常に飽いた妻と男の一夜を描いた作品を解説します。

【今回の作品】
大庭みな子三匹の蟹』 異国での日常に飽いた妻と男の一夜を描く

異国での日常に飽いた主婦の不倫を描いた、大庭みな子『三匹の蟹』について

学生気分の抜けきれない大人、という人類がいます。文学関係者は皆そうかもしれません。ですから小説の登場人物にも、そういうタイプが多いような気がします。夏目漱石なんか、主要登場人物の全員がそうかもしれません。同じタイプの人類が結集して、文壇という村を作っている。芥川賞の選考委員会も、そういう村社会の寄合みたいな感じがします。村社会の人々にとっては、村に帰属しない新しいタイプの人類、いわゆる「新人類」に対して、異物に出会ったショックから、畏敬の念みたいなものを感じがちです。新人類を描くと、選考委員たちはコロッといかれてしまって、すんなり受賞が決まるというケースが少なくないのです。

沖縄の人、在日外国人、外国在住の日本人、被曝体験者、中卒の人、どれも新人類です。お笑い芸人とか、コンビニ人間、などというのも明らかに新人類ですね。でもそういう新人類はすぐに古びます。いま芸人の話を書いても、コンビニの話を書いても、もう新しくはないですね。そういう意味で、いま『三匹の蟹』を読んでも、この作品の新しさは、若い読者にはピンとこないでしょう。これが1968年の作品だということ、つまりほぼ半世紀前の作品だということは、頭の中に入れておく必要があります。

海外在住の専業主婦という“新人類”

当時の村社会の人々にとっては衝撃的な新人類が、ここにいます。外国在住の専業主婦でフリーセックス……、これがこの新種の特徴です。若い人々には想像もつかないことでしょうが、1ドル360円の固定レートの時代ですね。外国に行こうと思っても、正当な理由がなければ外貨を入手できない、という不自由な時代です。外国にいる日本人というのは、国の留学生試験に合格した人とか、大手商社の社員などに限られていました。仕事で外国に行く場合は単身赴任です。ですから、専業主婦が外国にいるというのは、とても珍しいケースです。

ここまで書いてきて、少し不安になりました。いまという時代は、専業主婦という存在そのものが、レアケースになっているようですね。結婚しても働くというのは当たり前のことで、よほど収入の高い人の妻でなければ、専業主婦にはなれない。いまでは専業主婦は、憧れの的のような存在です。でも、ぼくははっきり言いますが、専業主婦というのは、その本人がよほどの見識をもっていなければ、つまらない立場ですし、生活も単調で退屈で、生きる意味さえ見失ってしまう。専業主婦というのは、蟻地獄の底にいるようなものではないでしょうか。

さて、『三匹の蟹』です。舞台はアラスカ。いわば無国籍の土地です。原住民だけがいた土地が、ロシア領になり、それからアメリカの州になった。そこに世界中からいろんな人種が集まってきた。そんなところです。そこで暮らしている専業主婦が、自分の生存のアイデンティティーを失ってしまう。小説は地味な芸術映画(要するにカークラッシュも怪獣も出てこない映画という意味です)のように展開します。シーンとセリフだけがあって、人間の内面が描かれてない。フィルムをつなぎあわせたカットバックの手法で、時間が前後するので、読者は頭の中で、時間の続き具合を修復しながら読む必要があります。

安っぽいホテルで獲得した“自由”

ファーストシーンは、車がないと生きていけない社会の中で、バスに乗り込もうとする女の描写から始まります。財布の中にあったはずの20ドル札(1ドルは360円、しかも半世紀前の貨幣価値です)がなくなっている。一晩つきあった男に盗まれたというか、中年のおばさんの相手をしてやったので、正当な報酬として財布から抜かれたのかもしれません。実はこのシーンは物語の最後に置かれるべきプロットです。

そこから話は、物語の発端に移ります。アラスカの中流の退屈な生活が描かれます。夫(仕事中心のいやな男です)のつきあいで、ホームパーティーをするために、専業主婦が料理やお菓子を作っている。妻の繊細さを理解しない鈍感な夫と、いやに大人びた可愛げのない10歳の娘。そういう生活がいやになった専業主婦が、ふらりと家を出て、しょぼい遊園地みたいなところをさまようことになります。

専業主婦の生き甲斐とか、生きる喜びって、何でしょうか。ぼくは専業主婦ではないので、よくわかりません。ぼくの奥さんは専業主婦ですが、とても幸せそうです。理解のあるやさしい夫に恵まれたからだとぼくは思っています。この作品に出てくる夫は、外国で仕事をしている有能な日本人の典型で、つまり、自分は正しいと信じ込んでいるいやなやつです。当時の日本人は、専業主婦は夫の奴隷だと思っていました。ヒロインの専業主婦は奴隷であることを拒否して、家を出るのですが、結局のところ、遊園地で出会った男と怪しげなホテルへ行って、20ドルを盗られてしまうという、何ともさえない結末になるのですね。

何しろ半世紀前の話です。日本の女子はヤマトナデシコと呼ばれ、夫以外とセックスするなんて、考えられもしなかった時代の話です。だからこそ、この行きずりの男とのセックスは、奴隷からの解放を意味しているのですし、当時の読者を驚かせたのですけれど、奴隷からの解放、すなわち自由の獲得が、うらぶれたホテルでのセックスだというのは、何とも哀しい話ですね。

作者はその哀しみを、しっかりと自覚して、意図的に描いています。それがラストシーンのホテルの外観の描写で示されています。赤いネオンでうきあがったホテルの名前が「三匹の蟹」なのですね。安普請のログハウスで、赤いネオンの横に、緑色のランプが点っている。何ともケバくて、チープで、うら寂しい、いま読み返しても、当時の女性が置かれた悲惨な状況が胸に迫ってきます。さて、その五十年後の、いまの女子たちは、どんな生き甲斐をもって生きているのでしょうか。

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初出:P+D MAGAZINE(2019/12/26)

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