宴も引けた深夜2時、吉原大門のそばに花魁がひとり。しかし、その顔は……平谷美樹の連続怪奇時代小説『百夜・百鬼夜行帖』第七章の壱 花桐 前編【期間限定無料公開 第71回】

第七章の壱 花桐(前編)2

「百夜さん、お邪魔いたしやすよ」
 と、左吉が腰障子を開けた。
 湯島一丁目の〈おばけ長屋〉である。
 左吉は上野新黒門町にある薬種問屋倉田屋の手代であった。
「今、忙しい」
 百夜はたすきで袖をまとめ、板敷きに短冊状に切った紙を置いて、何やら蚯蚓みみずののたくったように変形させた漢字の列を書き記していた。
「それ、なんでござんす?」
「根治万病符だ。梅雨にはいると食あたりが多くなるからな」
 百夜は加持祈祷を生業なりわいとする盲目の修法師である。まだ少女であったが、加持祈祷の腕は一流であった。
「食あたり除けの護符でござんすか」
 左吉は板敷きに腰掛けながら言った。
「食あたりばかりではない。万病に効く」
「それじゃあ、その護符を頂いていきゃあ、用は済むかな」
 左吉は腕組みして護符を見た。
「効く者と効かぬ者がいるからな。根治万病というのは、言い過ぎだ──。今回は病人か?」
 と、百夜は筆を置く。
「へい。浅草元鳥越町の蝋燭問屋上総屋の旦那で、市右衛門さんってお方なんですがね。今朝、お使いがウチの旦那んところに来たんでござんす」
 ウチの旦那とは倉田屋徳兵衛とくべえ。家で起こる怪異を百夜に解決してもらって以後、知り合いが巻き込まれた怪異の解決を依頼するようになっていた。左吉は、おたなの仕事そっちのけで、百夜と徳兵衛との連絡係を勤めていた。
「いかに薬種問屋とはいえ、薬は売っても病の見立てはできまい。急病ならばまずは医者を呼ぶべきであろう」
「医者ではどうにもならない病でござんしてね」
「恋の病などという下らぬオチではあるまいな?」
「とんでもない。恋の病の相談なら、百夜さんのところなんかに来やしませんよ」
「何を」
 と、百夜は左吉を睨んだ。
「上総屋さんは〝影の患い〟でござんす」
「何?」
 百夜は眉根を寄せた。
 〝影の患い〟とは、体から魂が抜け出す離魂病という病気のことを差す。自分の体から抜け出した魂を目撃すると死期が近いと言われていた。
 現代でいうところのドッペルゲンガーである。
 文政期に只野真葛という女性思想家によって記された【おうしゆう】という書物に、三代に渡って〝もう一人の自分〟を目撃した後に当主が亡くなった家のことが採話されている。
 左吉は、主人の徳兵衛に聞かされた、昨夜の市右衛門の体験を語った。
「──それで、上総屋さんは、〝影の患い〟じゃねぇかって、心配して寝込んじまったんでござんすよ。死ぬのは今日か明日か、明後日かってね」
「自分の顔をした花魁か──」
 百夜は腕組みをして考え込む。
「今回はつくがみ絡みじゃござんせんぜ」
 左吉は得意げに言う。
 彼が持ってくる仕事のほとんどが付喪神──器物が作られてから長い年月を経て妖怪に変化したモノ──にかかわるものであった。
 百夜は人の霊を慰める仕事をしたいと、いつも左吉に文句を言う。
 左吉は褒めてもらえるのではないかと期待しながら百夜の返事を待った。
 しかし、百夜は素っ気ない口調で訊いた。
「上総屋が花魁に会ったのは、なんという遊廓だ?」
 左吉はちょっとがっかりして答える。
「常盤楼で」
「常盤楼──」
 百夜は眉をひそめた。
 聞いた名前であった。
 鐵次が時々、亡魂の祓い清めのために出かけている遊廓である。鐵次の友人で祓い清めの手伝いをしている孫太郎から話だけは色々と聞いていた。
『常盤楼の花魁である七瀧に、鐵次はぞっこんだ。七瀧もまんざらじゃあねぇ様子なんだぜ──』
 ならば、この仕事は鐵次に譲ってやるべきか。
 と、思ったが、鐵次が鼻の下を伸ばしているという七瀧の顔も見てみたい。
「よし。常盤楼へ行ってみよう」
 百夜は仕込み杖を持って立ち上がった。 
「え? 上総屋さんのところじゃないんで?」
 左吉も慌てて立ち上がった。
「まずは〝影の患い〟ではない可能性を調べる」

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