【連載お仕事小説・第4回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です
燃えるお仕事スピリットが詰まった好評新連載、第4回。主人公の七菜(なな)は、毎日仕事に全力投球! 緊張と重圧の渦巻く現場と家の往復の日々。疲れきって帰宅すると、恋人の拓(たく)が来ていた。仕事に対するスタンスの違いから、つい苛々した声が出てしまう七菜。拓が七菜を気遣ってくれていることはわかっているつもりなのだが……。
【前回までのあらすじ】
主演女優・小岩井あすかの空腹により緊張が走る、テレビドラマの制作現場。主人公の七菜(なな)は、テレビ局の下請け制作会社のAP(アシスタントプロデューサー)。重い空気も意に介さず、スナック菓子をむさぼる大基に七菜の怒りは頂点に…! ストレスと戦いながら働く七菜も、頼子が作る「ロケ飯」でリフレッシュ。束の間の休息もあっという間に過ぎ去り、気持ちを切り替え、次の仕事に奔走する七菜だった……。
【今回のあらすじ】
緊迫した撮影現場と家との往復で、へとへとになりながら帰宅する七菜。気力と体力を振り絞って階段を上がっていくと、無造作に置かれた男物の黒い革靴が一足。恋人の、拓(たく)が来ていたのだった。付き合い出して2年。出会った時のことを七菜は鮮明に覚えている。七菜の、仕事に賭ける情熱を、理解しようとしつつ気遣ってくれている拓。しかし、七菜の心には少しの苛立ちが……。
【登場人物】
・時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。
・板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。
・小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。
・橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。
・佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。
・平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。
・野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。
・佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。
【本編はこちらから!】
自宅である中野のマンションに帰り着いたのは、ちょうど日づけが変わるころだった。
シナリオや資料でぱんぱんに膨れ上がった重いトートバッグを肩に、七菜は三階にある部屋まで気力と体力を振り絞って階段を上がっていく。
今度引っ越すときは、絶対にぜったいにエレベーターのあるマンションにしよう。
白い息を吐きながら、毎晩考えることを今夜も繰り返し思う。
部屋の前に着いた。かじかむ手で鍵を取り出す。冷気を吸い込んで氷のごとく冷えきった鍵を鍵穴に入れ、ドアを開ける。
ふわり。温かい空気が七菜を包む。反射的に三和土を見下ろす。無造作に置かれた男物の黒い革靴が一足。恋人である佐々木拓が来ているとわかる。
「ただいま。拓ちゃん、来てたんだ」
トイレとお風呂に挟まれた短い廊下を通ってリビングのドアを開ける。
ジャケットを脱ぎ、ネクタイもはずしてワイシャツ一枚になった拓が、青いソファに寝転んでテレビを見ていた。ローテーブルの上にはコンビニの空き袋と、空になった弁当箱。それにビールの缶がふたつと、口を開けたポテトチップの袋がひとつ転がっている。
「おかえり七菜ちゃん。寒かったでしょ、こんな遅くまで」
拓が、ふわあと大あくびをした。
「寒かったあ。エアコンの温度、上げていい?」
トートバッグを床に投げるように置き、七菜はリモコンに手を伸ばす。床に落ちたはずみで台本が何冊か、バッグから滑り出る。
「うん。あ、冷蔵庫にチンするだけの鍋焼きうどん、買ってあるよ」
上半身を持ち上げて拓が言う。
「だめだよ、こんな時間に食べたら太っちゃう」
「なんか食べてきたの」
「ううん、撮影の合間にサンドイッチだけ」
「じゃ食べなよ。お腹空いて眠れないよ」
拓が、色白の丸い顔を緩めて言う。やや垂れ気味の眉の下の目は、糸のように細い吊り目だ。いまその目は半円を描くように細められ、優しい笑みを湛えていた。拓の顔を見ていたら、寒さと緊張で縮こまっていた胃の口が緩み出し、だんだんお腹が空いてきた。
「じゃあ食べちゃおっかな。明日の撮影もハードだし」
じぶんに言い聞かせるようにつぶやいて、七菜はリビングに接したキッチンへ入り、冷蔵庫の取っ手に手をかける。
拓と付き合い出して二年が経つ。
初めて拓に声をかけられたときのことを、七菜はいまでもよく覚えている。
単館系の小さな映画館、新宿武蔵野館。イタリアの喜劇映画を観終わり、さあ帰ろうと席を立ったときだった。
「あの。一昨日もお会いしましたよね、池袋のロサ会館で」
いきなり真横から声をかけられて、飛び上がるほど驚いた。振り向くと、細い目をいっぱいに見開き、両の拳を固く握りしめた拓が立っていた。
誰だ、このひと。しかもなんでこんな怖い顔をしてるんだ。
驚きと恐怖で固まってしまった七菜に向かい、たたみかけるように拓が尋ねてくる。
「いましたよね。で、フランスの映画、見ましたよね」
こたえねばいまにも殴りかかられそうで、七菜は必死に記憶をまさぐる。
「あ、は、はい、いました見ました、ドヌーヴの出てるやつ」
舌を縺れさせながらこたえると、拓は生真面目な顔のまま頷き、
「その前は渋谷のヒューマントラストで、その前は恵比寿のガーデンシネマ。で、さらにその前は」たたみかけてくる。
「ちょ、ちょっと待ってください。ええと渋谷……恵比寿……」
決めて通っているわけではない。たまたま時間が空いていて、しかも面白そうな映画がかかっているときに飛び込みで観るのが七菜のスタイルだ。いちいちいつ、どこへ行ったのかなんて気にもしたことがなかった。
だが拓は自信たっぷりに頷くと「いたんです、あなた、そこに。そしてぼくもいました。同じ回に同じ映画を同じ映画館で。今日でちょうど五回目になります」ひと息で言いきった。
混乱したまま七菜は考える。そうだったのか。そんなことが。でもだからなんだというのだろう。まさか「おれのシマを荒らすんじゃねえ」とか因縁をつけてくる気だろうか。
「あのう……それがなにか」
バッグを胸に引き寄せ、いつでも逃げ出せる体勢で恐るおそる七菜は問う。拓が一歩、七菜のほうへにじり寄る。額ににじむ汗が見えた。両目は限界まで見開かれている。
「それでですね……よかったらこのあと、お茶でもしませんか」
これがふたりの「馴れ初め」であった。
拓がじぶんよりひとつ下であること、大学を出て大手食品メーカーの総務部に勤めていること、実家は成城でいまもそこに住んでいること、ほんとうは映画関係の仕事に就きたかったが両親の反対に遭い叶わなかったこと――
何度か一緒に映画を観、お茶や食事をともにするうちに、映画の感想だけではなくお互いの話もするようになった。
映画の趣味が合い、けっして社交的ではないが誠実な拓に、七菜はだんだん好意を持つようになる。
そして出会いから二年経ったいま、週に三回ほど拓は七菜の部屋にやって来、夕飯を食べたりときには泊っていく間柄になっていた。
「へえ。いま撮ってるの、こういうドラマなんだ」
ラグの上に座り込み、熱い鍋焼きうどんにふうふう息を吹きかけていると、拓が床から拾い上げた台本をぺらぺらとめくった。
「撮影始まって三日めだっけ」
「ううん、今日で五日め」
「いまどのへん」
「第一話のちょうど真ん中あたりかなあ」
「今回は板倉さんの企画なんだね」
スタッフ一覧のページを指して拓が言う。
「うん」
くたりとした長ねぎを箸で摘まんで七菜は頷く。
ドラマの企画を立て、それが通った時点で、企画者はプロデューサーとしてそのドラマの責任者となる。だから七菜の立てた企画が通れば、七菜もアシスタントプロデューサーからプロデューサーに「出世」できる。
じぶんの立てた企画が実際にドラマになる。
それは七菜だけでなく、制作畑で働くものにとってはなによりの喜びであり、夢と言ってもいいだろう。その夢を叶えるため、七菜も日々企画を練っては提出しているが、なかなかに壁は厚く、高い。とにかくいまはアシスタントプロデューサーとして頼子を精いっぱい支えよう。目の前の仕事をきちんとこなしていれば、いつかきっと夢が叶う日が来るに違いない。
「早く七菜ちゃんの企画も通るといいね」
七菜のこころを読んだように拓がつぶやく。
「ん。がんばるよ」
コシのないうどんを啜りながらこたえる。
見ためは豪華だけれど、しょせんはコンビニのうどん、出汁も具もなんだか薄っぺらい。
とはいえじぶんで夜食を作るほど体力も気力も残っていない。そもそも七菜は食べることにあまりこだわらないほうだ。美味しいものはもちろん大好きだが、わざわざ自宅で作ろうとまでは思わない。実家住まいのころは母の作るものを淡々と食べ、ひとり暮らしをするようになってからは、ほとんど自炊することもない。それは拓も同じで、コンビニやファストフードがどんなにつづいても不満を持たない性質だった。もっとも拓は実家住まいなので、家に帰れば母親手作りのおかずが何品も並ぶような生活だという。
「今回のドラマは学園ものなんだね」
台本から目を離さずに拓が問う。映画好きなだけあって、拓は七菜の持ち帰る台本を読むのを楽しみのひとつとしていた。
「んー学園ものとは違うかな。どっちかっていうと主人公が成長していくヒューマンドラマって感じ」
「だからタイトルが『半熟たまご』?」表紙を眺めて拓がつぶやく。「どんなあらすじなの」
ちょうどうどんに乗った半熟たまごを箸で割りながら七菜は話し出す。
「えーとね、主人公は、小岩井あすか演じる今田環子っていう二十三歳の女性で、もともと派遣社員として働いてたんだけどリストラに遭って、同時に付き合ってた彼氏に振られて自暴自棄になっちゃうの。それがふとしたきっかけで『さくらこども塾』の塾長である橘一輝と出会って」
「『こども塾』?」
拓が首を捻る。七菜はビールのプルタブを引き上げ、ひと口喉を潤してからつづける。
「知らない? 最近けっこう話題になってるんだけど、貧困家庭だったり、ひとり親で経済的に余裕がなかったりする子どもに無料で勉強を教える、そうだな、ボランティアの学習塾って言えばわかりやすいかな」
拓がおおきく頷いた。
「ああ、ネットニュースで読んだことあるよ」
「で、橘一輝のもとで講師を始めるの。周囲には気難しい元校長先生や、問題を抱えてる親とかがたくさんいて、環子は毎回、振り回されるんだ。『好きで始めたわけじゃない』って、最初後ろ向きだった環子がいろんなひとと出会い、経験を積むなかでだんだん成長していって――『生きがいってなんだろう』『じぶんはなんのために生きてるんだろう』って模索をし始める。そしてついに環子は――」
「環子は?」
拓が膝を乗り出す。七菜は割ったたまごを口に放り込んだ。
「そこは秘密。ってかまだ台本、上がってない」
にやりと笑って見せると、拓が苦笑を返した。
「今回もぎりぎりの進行じゃない」
「ってか、余裕のある進行なんてあった例しがないし」七菜はうどんの最後のひと口を啜り込む。「ごちそうさまでした」
手を合わせ、割り箸をカップのふちに置く。拓の食べた弁当殻をまとめ、その上にうどんの丼を乗せ、汁をこぼさないよう慎重にキッチンに運ぶ。
実家暮らししかしてこなかったせいか、拓は炊事も掃除も洗濯も、ちょっとした片付けすらできない。ただそのぶん、どんなに部屋が汚れていようと、服が脱ぎっぱなしで放置されていようと、文句をこぼしたことは一度もない。そのおおらかさに、七菜はずいぶんと救われてきた。
「拓ちゃん、今日泊ってくでしょ」
「あ、うん」
台本を読みながら拓がこたえる。
「さきお風呂入ってもいい? 明日も早いんだ」
七菜は給湯器のスイッチを押した。
「いいけど。明日は何時?」
「五時に新宿だから四時起きかな」
七菜のことばに拓が顔を上げる。
「四時? ほとんど寝る時間ないじゃない」
「仕方ないよ、撮影中だもん」
流しにうどんの汁を捨て、弁当殻と一緒にカップをゴミ箱に放り込む。拓は無言のままだ。ちらりと拓の顔を窺う。眉根を寄せ、じっとこちらを見ていた。
「忙しいのはわかるけどさ、からだ壊しでもしたらどうするの。仕事、もう少しセーブしなよ」
「無理言わないでよ」
「働きかた改革って知ってる? いま残業には厳しいんだよ。むかしと違って」
拓の会社は日本でも有数の大企業であるアタケ食品だ。しかも老舗の食品メーカーだけあって、このご時世でも堅実な経営をつづけている。社員の福利厚生も充実しており、定時退社に積極的に取り組み、有給消化率も高いと拓から聞いている。拓自身も仕事とプライベートはきっちり分けるタイプで、七菜は拓が家で持ち帰りの仕事をしているすがたを見たことがない。
「そりゃ拓ちゃんの会社だったらそうだろうけど」
「うちだけじゃないよ、どこもいまそういう風潮だよ」
「大企業と中小零細を一緒にしないでよ。ひとがいないんだもん。お金もないし」
つい苛々した声が出てしまう。
「七菜ちゃん。ぼくは七菜ちゃんのからだが心配だから」
拓が立ち上がり、キッチンへと近づいてくる。
わかっている。拓が純粋にあたしを気遣ってくれていることは。
でも、ドラマの撮影はチームプレーだ。ひとりだけ特別な行動を取ることなどできるわけがない。とにもかくにも『半熟たまご』が無事にオンエアされるまでは、ただひたすら走るしかないのだ。走りきるしかないのだ。
七菜は何度も繰り返してきたことばを口にする。
「ありがとう。無理はしないようにするから」
「だったら」
折よく、風呂が沸いたという機械音が流れる。
「あ、お風呂沸いた。入ってくるね」
拓の横をするりと抜け、リビングのドアに向かう。背後から、まだなにか言いたそうな雰囲気が伝わってくる。断ちきるように七菜は音を立ててドアを閉めた。
【次回予告】
恋人・拓が、純粋に気遣ってくれていることは理解できるのだが、突っ走るしかない仕事への情熱を抑えきれない七菜。小さなすれ違いを押し殺す七菜だったが……?
〈次回は2月7日頃に更新予定です。〉
プロフィール
中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)
1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。
<中澤日菜子の「ブラックどんまい!」連載記事一覧はこちらから>
初出:P+D MAGAZINE(2020/02/07)