迫り来る頭痛と吐き気に耐えつつ仕事に臨む主人公・七菜。そこに突如現れたのは……!? 次々襲うハプニング! 【連載お仕事小説・第9回】ブラックどんまい! わたし仕事に本気です

燃えるお仕事スピリットが詰まった好評新連載、第9回。主人公の七菜(なな)は、いつも仕事に全力投球! 大きな難局を乗り越えた開放感から、つい飲み過ぎてしまった七菜。翌日、重い頭痛と吐き気に襲われながら撮影現場に立ち会うも、なかなか調子は良くならず……。そんな時に、また新たな事件が勃発!

 

【前回までのあらすじ】

ドラマ原作者・上条朱音に、最大限の気を遣い、もてなす七菜たちスタッフ。そんな時に、朱音のコートの肩に鳥のフンが……! 甲高い悲鳴を上げ動転する朱音。七菜は咄嗟にじぶんのダウンジャケットを脱ぎ、朱音に渡す。ヘアメイクの愛理の力も借りながら、窮状を乗り切ろうと奮闘する七菜だが……。

 

【今回のあらすじ】

コートについた鳥のフンの応急処置が功を奏し、朱音は上機嫌に。危機を乗り越えた安心感からその日の夜飲み過ぎてしまった七菜を襲ったのは、重い二日酔いだった。長時間続く撮影になんとか耐えていた七菜だが、具合は一向に良くならない。重い頭痛を引きずりながらなんとか踏ん張っていると、そこに新たな事件が……!
 

【登場人物】

時崎七菜(ときざき なな):テレビドラマ制作会社「アッシュ」のAP、31歳。広島県出身。24歳で上京してから無我夢中で走り続け、多忙な日々を送っている。

板倉頼子(いたくら よりこ):七菜の勤める制作会社の上司。チーフプロデューサー。包容力があり、腕によりをかけたロケ飯が業界でも名物。

小岩井あすか(こいわい あすか):撮影が進行中のテレビドラマの主演女優。

橘一輝(たちばな いっき):撮影が進行中のテレビドラマの主演俳優。

佐野李生(さの りお):七菜の後輩のAP。26歳で勤務3年目。

平大基(たいら だいき):七菜の後輩のAP。今年4月入社予定の22歳の新人。

野川愛理(のがわ あいり):メイクチーフ。撮影スタッフで一番七菜と親しい。

佐々木拓(ささき たく):七菜の恋人。大手食品メーカーの総務部に勤めている。

上条朱音(かみじょう あかね):ドラマ『半熟たまご』の原作者。数々のベストセラーを持つ小説界の重鎮。教育評論家としても名高い。

 

【本編はこちらから!】

 
 ずんずんずんずん。
 眉間から両の側頭部にかけて、重い鐘を突くような鈍痛が絶え間なく襲ってくる。吐き気で胃が喉もとまでせり上がり、苦くて酸っぱい汁が口のなかにこれでもかと湧きあふれる。少しでも気を抜いたら、胃の中のものすべてを戻してしまいそうだ。
 澄んだ青空、透明で清冽な冬の大気のなかで、七菜(なな)はひどい二日酔いに苦しんでいた。
 うう、飲み過ぎた。昨夜は完璧に飲み過ぎた。
 湧いてくる唾を、七菜はごくりと飲み込む。とたん、さらに激しい吐き気を催し、七菜はぐっと歯を食いしばって耐える。
 腕時計に目を落とす。時計の針は十時二十分をさしていた。
 こんな状態であと十二時間、撮影に立ち会うのか。七菜は気の遠くなるような思いで、浅い呼吸を繰り返す。
 今日の撮影は「さくら塾」が開かれているという設定の公民館、その出入り口から始まっている。
「塾に通う中学生が公園で煙草を吸っていた」という苦情が寄せられ、「素行不良の生徒が集まる『さくら塾』は町から出て行け」と近所の住民が一輝(いっき)とあすかに詰め寄るシーン。
 近所の住民役、およそ三十名は全員がエキストラだ。出入り口のガラス戸を背に、必死になだめる一輝とあすか、ふたりを半円形で取り囲むようにエキストラが配置されている。住民という設定なので男女半々、年齢も二十代から七十代と多岐にわたる。
 撮影の邪魔にならないよう、七菜は車道一本隔てた歩道でテストを見守っていた。
 エキストラを含む大勢の出演者がいる撮影は、位置取りやせりふのタイミングが難しい。さらには遠景で状況を、俳優たちのアップで細かい感情や関係性を捉えねばならないので、必然的に本番とテストの回数が増えていく。
 はたして予定通り昼前に終わるだろうか。七菜は不安になってくる。午後まで持ち越すとなると、ロケ弁を追加で買いに行かねばならない。
 ロケ弁。
 イメージしたとたん、あらたな吐き気が込み上げて来、七菜は思わず手を口もとにあてた。七菜の横に立つ李生(りお)が、ちらりと視線を投げてくる。
 なにか言われるかな。いっしゅん七菜は身構える。だが李生はなにも言わず、ふいと視線を前に戻した。
 ()(ぐち)監督が右手を上げる。
「シーン14、テスト3!」
「はい、シーン14、テスト3、行きます!」
 助監督が復唱し、カチンコを切る。主役ふたりの前に立った()(むら)が、肩に担いだカメラをエキストラの中央に向けた。町内会長役のエキストラ男性が声を張り上げる。
「だからね、信用できないって言ってるんだよ! 煙草吸ってたのも一回だけじゃないって言うし」
「そうよ、そうよ。万引きしてるって噂も聞いたわ」
 加勢するように叫ぶのは、PTA役員役の女性だ。ふたりに同調する声が、あすかと一輝を取り囲むエキストラたちから次つぎに上がる。一見、それぞれが勝手に喋っているように見えるが、これもテストを繰り返すうちに決まったせりふだった。
 ひとくちにエキストラといっても、さまざまなランクがある。町内会長やPTA役員役のふたりのように、きちんとしたせりふがあり、アップの撮影にも耐えられるエキストラはベテランというより、もはやプロのエキストラで、当然ながら時給も高い。
 対して「ガヤ」と呼ばれるその他大勢にも、エキストラ慣れしているひとから今回が初めてというど素人まで、いろいろな人間が混じっている。高いひとで一日拘束して日給七千円、いちばん安いランクだと三千円。なるたけ製作費を安くあげたい制作側の七菜たちにしてみれば、「お高いかたから順に帰していく」のがいちばん望ましい。とはいえじっさいの撮影に入ると、そう上手くは行かないのが常ではあった。
 ひと通りクレームのシーンが終わったところで「はい、OK!」矢口監督の声が響く。
「次、本番行きます。その前に照明とカメラ位置、ちょっと直します」
 監督の指示を聞いて、エキストラたちがばらばらとスタッフの輪の外に出て行く。村本(むらもと)がすかさずあすかに駆け寄り、日傘を差しながら待機場所のチェアにいざなった。待っていた(あい)()が手早くあすかのメイクと髪を直す。愛理の動きは溌溂(はつらつ)として、表情にもまったく疲れは見られない。あすかと楽しげに会話しながら、手際よく作業を進めていく。
 昨夜はあたし以上に飲んだのに。いったい愛理さんの肝臓はどうなっているんだ。ウコンでも分泌しているのだろうか。七菜は羨望と敗北感の入り交じった目で愛理を眺めた。
 ひとの減った出入り口前では矢口監督と撮影チーフの田村、それに照明チーフの諸星(もろぼし)が、手振りを交え、なにやら真剣に相談をしている。どうやら監督のオーダーに、ふたりが異を唱えているようだ。
 七菜はふたたび腕の時計を見やる。十時半を少し超えたところだ。ついでダウンのポケットから、折り畳んだスケジュール表を取り出し、広げる。
 このあとはベテランエキストラふたりを先頭に住民がなかへ押しかけようと詰め寄るシーン、それを阻もうとするあすかと一輝のシーン、エキストラたちのアップ、そしてカメラを後方に引いて全体をひとつのフレームにおさめるシーンとつづく。
 シーン数としては四つだが、たいていの場合、角度や構図を変えて多めに撮るケースが多い。たとえ捨てカットになっても、尺が足りなくなるよりはずっとましだからだ。
 ここまでで終了予定は十一時半。でもこのペースでは午後に持ち越す可能性が高かった。
 (より)()さんに指示を仰いだほうがいいかもしれないな。頭痛と吐き気でぼんやりした頭で考える。いちばん近いコンビニまで歩いて十分はかかる。しかも三十名ぶんの弁当だ、買うのも運ぶのも一苦労だろう。
 七菜は痛む頭をゆっくり動かし、スタッフのなかに頼子のすがたを探す。けれど外に集うスタッフのなかに頼子のすがたは見られなかった。きっと公民館の調理室で、ロケ飯の支度をしているのだろう。
 しかたない、なかに入って聞いて来よう。
 砂のみっしり詰まった袋のようにからだが重たい。一歩踏み出しただけで、頭ががん、と鳴り、猛烈な吐き気が襲ってくる。
 でも行かなくちゃ。時間がないんだから。七菜は気力をかき集め、慎重に歩き出す。と、そのとき。
「やめてください!」
 斜め前方から、男性の悲鳴にも似た大声が響いてきた。反射的にそちらを見る。あすかの全身を覆うように日傘を差しかける村本、その横にぼう然とした表情で立つ愛理、そしてもの凄い勢いで走り出す背の低い男が視界に入った。
「盗撮です! 捕まえてください!」
 金切り声で村本が叫ぶ。その間も男はスピードを緩めず、走ってゆく。男に突き飛ばされたエキストラが悲鳴を上げた。
 盗撮!? 捕まえなくては!
 あわてて駆けだそうとしたとたん、(きり)で突かれたような鋭い痛みが脳髄を刺した。眩暈(めまい)がして、ぐらりと天地が揺らぐ。踏ん張ろうとした右足に左足が絡む。重心が傾く。そのまま七菜は右半身から倒れ込み、アスファルトに激しく頭を打ち付けた。
「七菜ちゃん!」
 愛理の叫び声。近づいてくるヒールの音。
「動かすな! 頭打ってる!」
 田村の野太い声が間近で聞こえる。()じれ、ひっくり返った胃から、七菜は大量の胃液を吐きだした。
「まずい、吐いてる。救急車、早く!」
 田村の、切迫感に満ちた声が周囲に響きわたる。
 ぼうっと霞む意識のなか、地面に倒れ伏した七菜は目だけで男を追う。車道を渡ったところで、李生が男に背後から抱きついた。暴れる男を、李生はからだじゅうで抑え込んでいる。李生から逃れようと、男はからだを捻じり、手足をめちゃくちゃに振り回す。分厚く四角いからだに、不釣り合いな細く長い手足。
 どこかで見た。しかもつい最近――途切れがちな意識を、七菜は必死で繋ぎ止める。(もつ)れていた記憶がひとつの像を結ぶ。
 思いだした。路地でぶつかった男、あの蟹男だ、あいつは。
 駆けつけたスタッフが、男が握りしめたスマホを取り上げた。
「……なんであいつがここに……」
 村本のうめき声が耳に届く。
 意識が薄れてゆく。ひとびとの慌ただしく動く気配を感じながら、七菜は暗黒へと飲み込まれていく。

 

【次回予告】

盗撮騒ぎの勃発に反射的に駆け出した七菜だったが、重い二日酔いの体は言うことを聞かなかった。アスファルトに激しく頭を打ち付けてしまったことで、どうなる、七菜……!

〈次回は3月20日頃に更新予定です。〉

プロフィール

中澤日菜子(なかざわ・ひなこ)

1969年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒。2013年『お父さんと伊藤さん』で小説家デビュー。同作品は2016年に映画化。他の著書に、ドラマ化された『PTAグランパ!』、『星球』『お願いおむらいす』などがある。

<中澤日菜子の「ブラックどんまい!」連載記事一覧はこちらから>

初出:P+D MAGAZINE(2020/03/13)

◎編集者コラム◎ 『ハーフムーン街の殺人』著/アレックス・リーヴ 訳/満園真木
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