▽▷△超短編!大どんでん返しExcellent▼▶︎▲ 逸木裕「思い出の家」

「超短編!大どんでん返し」第8話

 思い出の家を訪れたのには、いくつかの理由があった。土曜日に行く予定だった歯医者が、担当医の急病でキャンセルされたこと。日々のどうでもいい仕事にすり減らされ、癒やしを求めていたこと。長年介護をしていた母親が死に、心に巨大な空洞が生まれていたこと。

 家は神奈川県横浜市の住宅街にある一軒家で、いまは空き家になっている。私は周囲の様子を窺い、誰もこちらを見ていないことを確信してから玄関のドアを開けた。鍵は、かかっていなかった。

 はじめに襲ってきたのは、匂いだった。

 家は固有の匂いを持っている。住む人間の体臭が、中で作られていた料理が、積もり積もった埃や黴が、長い年月をかけてクロスの繊維やフローリングの溝に染み込み、拭えなくなる。あのときの匂いが、私の嗅覚を直撃した。目眩がするほどに懐かしかった。

 十年前の記憶が、徐々に薄れてきていること。

 それも訪問の理由のひとつだったことに、私は気づかされた。あのときの美しい思い出を、忘れたくない。心の奥にある切実な願いが、私をここに導いたのだ。

 身体が震えた。

 子供部屋の本棚に並ぶ絵本たち。和室の棚に飾られている老夫婦の写真。寝室にあるダブルベッドと、古びた毛布。何もかもが当時のままではないが、家は十年という年月からは想像できないほどに当時の状態を保っていた。部屋のドアを開けるごとに、思い出が溢れかえる。気がつくと私は、涙を流していた。

 リビングのドアを開ける。

 そこで思わず、声を上げそうになった。

 死んだはずの家族が、食卓を囲んでいた。

 夫婦と、ひとりの幼い娘、夫の母の四人が三世代で同居していた家だった。その全員が食卓につき、湯気が立ち上る器から料理を取り分けている。

 彼らは何かを話しているようだったが、その声は聞こえてこない。春巻き、クリームシチュー、大皿に盛られたアサリのスパゲッティ。美味しそうな料理の姿がはっきりと見えるものの、あるべき匂いは漂っていなかった。

 ――幽霊。

 ――幻覚。

 可能性が、同時にふたつ浮かんだ。

 まあ、なんでもいい。いずれにせよ、彼らが死んでいることに変わりはないのだ。

 私は、その場に佇むことにした。

 学校でいいことでもあったのか、子供が嬉しそうに何かを報告している。その頭を強めに撫でる父親と、嫌がりながらも満更でもなさそうな娘。妻はリラックスした表情で全員分のシチューを取り分けていて、夫の母は三人の様子を微笑ましそうに見つめている。ささやかだが手に入れることが難しい、幸福な家庭の一幕。

 ――ああ。

 十年前のあの日、私は幸せだったのだ。

 そのことに改めて気づかされるとともに、この十年の苦境に思いを馳せた。定職に就くも、上司や同僚と揉めてやめることを繰り返し、雇用してくれる会社はどんどん劣悪なものになっていった。恋人もずっといない。同居していた母が脳梗塞で倒れてからは、介護に追われ続けていた。貯金の残高が一万円を超えることは稀で、自暴自棄になりそうなときもあったが、それでもなんとか自分を律して生きてきた。

 それは、間違いだった。

 私は、臆病だった。幸せを摑むことを躊躇い、人間の生など不幸で当たり前なのだと、判った風なことを嘯きつつ自分を諦め続けていた。もうそんなくだらない人生とは、決別しなければいけない。宝石が結晶するように、私の奥底で、決意が固まっていった。

 私は食卓の脇を通り、奥のキッチンに向かった。

 四人は私に気づく様子もなく、食事を続けている。こちらの世界とあちらの世界は、透明な膜のようなもので遮られているのかもしれない。だが、それを乗り越えられる予感が、私の中にあった。

 キッチンカウンター越しに、家族のほうを見る。

 そこに幸せ以外の感情が存在しないような、温かな食卓。この家では蛇口をひねれば供給されるように、幸せな時間が溢れていた。

 私も彼らのように、幸せになりたい。

 誰かの幸せを破壊することでしか、私は幸せになれないのだから。

 私は棚にあった包丁を手に取り、四人に躍りかかった。

 その瞬間だった。

 四人が、一斉にこちらを向いた。

 寒気がした。

 昏い目をしていた。何の感情も浮かんでいない、こちらをただ〈見る〉ことだけに特化した目。八つの目を持つ巨大な化け物に、睨みつけられているようだった。

 視界が暗くなった。

 身体が冷たくなり、床に倒れ込むのを感じた。

  

〈×月×日、神奈川県横浜市にあるFさん宅に無職の男(34)が侵入し、警視庁は住居侵入の疑いで男を現行犯逮捕した。男はFさん宅に侵入後、リビングで眠っていた。Fさん宅では十年前、一家四人が殺害される事件が発生し未解決となっていたが、男は事件との関係を匂わせているほか、「幸せになりたかった」などと供述しており……〉


逸木裕(いつき・ゆう)
1980年東京都生まれ。学習院大学法学部法学科卒。フリーランスのウェブエンジニア業の傍ら、小説を執筆。2016年、『虹を待つ彼女』で第36回横溝正史ミステリ大賞を受賞し、デビュー。2022年、『五つの季節に探偵は』に収録された短編「スケーターズ・ワルツ」で第75回日本推理作家協会賞〈短編部門〉を受賞。他の著書に『星空の16進数』『祝祭の子』『世界の終わりのためのミステリ』『四重奏』などがある。

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