〈第16回〉加藤実秋「警視庁レッドリスト」

■連載小説■ 加藤実秋「警視庁レッドリスト」

慎が堤に取引を持ちかけた。
と、そこへみひろが引き返してくる。


 10

 廊下を進んだみひろは、職場環境改善推進室の前で立ち止まった。ドアを見上げ、息をつく。 

 私の気持ちは伝えた。後は室長がどう出るか。どっちにしろ、このまま職場環境改善推進室を潰させはしない。昨夜から考えてきたことを頭の中で繰り返し、みひろは「よし」と呟いた。腕を伸ばしてレバーを摑(つか)み、ドアを開けた。

「おはようございます」 

 挨拶しながら部屋に入ると、カチャカチャという乾いたリズミカルな音が聞こえた。

「おはようございます」 

 慎が応えた。スーツ姿でノートパソコンに向かっている。 

 みひろは室内を進み、自分の机にバッグを置いて椅子に座った。ノートパソコンの電源を入れ、通勤途中に買ったコーヒーをすすりながら向かいを盗み見た。慎は、無表情にノートパソコンのキーボードを叩いている。 

 そのうち何か言ってくるだろうと、みひろはメールをチェックしたり、さらにコーヒーをすすったりした。しかし、慎はノーリアクション。痺れを切らし、口を開いた。

「あの。ちょっといいですか?」

「はい。なんでしょう」 

 キーボードを叩く手を止めてメガネにかかった前髪を払い、慎はこちらを見た。

「昨夜の件なんですけど、話を整理させて下さい。室長は、何のために中森さんの事件を調べているんですか?」 

 慎は即答した。

「真相を明らかにして、自分が監察係を異動になった理由を知りたいからです」

「特命追跡チームが事件を捜査していますよね。なんで任せておかないんですか?」

「正しい情報が得られるとは限らないからです。持井さんたちが事件を解決したとしても、真相は隠蔽される可能性が高い」

「まあ、確かに」 

 持井と本橋、柳原の顔を思い浮かべながらみひろが返すと、慎は満足したように頷いた。それを見て、みひろの胸に疑念と警戒心が湧く。ノートパソコンの液晶ディスプレイ越しに慎を見て、さらに問いかけた。

「でも、それだけですか?」

「それだけです」 

 答えてから、慎は何か考えるような顔をした。みひろが身を乗り出すと慎は顔を上げ、こう付け足した。

「強いて言うなら、自分で捜査した方が早い。中森という人間をよく知っているし、捜査関係者の誰より、僕は優秀です」

「でしょうねえ」 

 辟易(へきえき)し、みひろは身を引いた。話は終わったと判断したのか、慎は作業を再開した。そうはさせるかと、みひろはさらに言った。

「だからって、堤さんを巻き込むのは違うでしょう。弱みにつけ込んで職場の仲間をスパイさせるなんて、卑怯(ひきょう)ですよ」

「あれは取引で、弱みにつけ込んではいません。加えて僕は堤から警備第一課の様子と、監察係の聞き取り調査の状況を聞いているだけです。世間話の延長で何ら規則違反はしていませんし、犯罪でもありません」 

 突き放すように慎に返され、みひろは口をつぐんだ。張り詰めた空気が流れ、そこに慎がキーボードを叩く音が響く。 

 負けるもんか。対抗心が湧いたが、返す言葉が浮かばない。みひろはトイレに行くふりでメイクポーチを入れたミニトートバッグを持ち、部屋を出た。 

 廊下を進み、エレベーターで六階に上って連絡通路を渡り、本庁舎の十六階に向かった。 

 出入口から覗くと、警備第一課はまだざわついていた。空席も目立つので、監察係の聞き取り調査が続いているのだろう。 

 警備実施第一係に近づき、視線を送ると堤はすぐみひろに気づいた。奥の席の伊丹を気にしながらジェスチャーで意図を伝え、堤が頷くのを確認して部屋を出た。 

 廊下に戻り、奥まった場所で待つこと三分。制服姿の堤がやって来た。

「昨夜は失礼しました。三雲です」 

 改めて挨拶をしたみひろに堤は「はあ」と返し、周囲を見た。慎を探しているのだと気づき、みひろは告げた。

「室長とは関係なく、お話ししたくて来ました。いきさつは聞いたし、二人の関係を守るために取引を受け入れたっていうのもわかります。でもなんで、泉谷さんに何も伝えないんですか?」

「だから、悪いのは僕で余計な心配をかけたくないから。言われた通りにすれば、何もなかったことになりますし」 

 抑えめの声でぎこちなく、堤は答えた。みひろはさらに問うた。

「今回はそれで済んでも、また同じことが起きたら? 処分するか利用するかできる職員がいないか、常に目を光らせてるのが警察ですよ」

「今回やり過ごせれば、それで構いません。先のことなんか考えたら、僕らみたいな関係は成り立たないですよ」 

 そう言って顔を背けた堤の、「何もわかっていないクセに」という心の声が聞こえた気がした。みひろは返した。

「でも泉谷さんに会って、彼が堤さんを心から信頼して、大切に思っているのはわかりました。男とか女とか関係なく、大切な人が悩んで苦しんで、何か背負おうとしてるなら、話して欲しいと思うでしょう。今の状況を泉谷さんに伝えて、話し合うべきです。よければ、私が」

「やめて下さい!」 

 声を上げてから、堤ははっとして廊下に目をやった。誰もいないのを確認し、俯いて苛立ったように「そういうことじゃないんだよ」と呟く。みひろは戸惑い、さらに質問しようとしたが、それより早く堤が言った。

「泉谷は科捜研で働きたくて、警視庁に入りました。何度アピールしてもダメだったけど、今年の秋の異動でようやく叶いそうなんです。でも、僕との仲がバレたらチャラになるどころか、機動隊にもいられなくなる。僕は泉谷の夢を守りたいんです」

「そうだったんですか」 

 確かに泉谷さんは、「理系なんですよ」って言ってたな。合点はいったが納得できず、みひろが先を続けようとした矢先、バイブ音がした。堤がスラックスのポケットを探り、スマホを取り出す。液晶画面を確認した表情で、みひろは誰からの着信かわかった。

「泉谷さんからですね。出ないんですか?」 

 問いかけたが堤は答えず、スマホをサイレント応答にしてポケットに戻した。

「僕は結果を出して、取引を成立させます。三雲さんは阿久津さんの部下なんですよね? だったら、上司の決めたことに口を挟まないで下さい」 

 思い詰めた目でみひろに告げ、堤は廊下を戻って行った。

 


「警視庁レッドリスト」連載アーカイヴ

 

加藤実秋(かとう・みあき)
1966年東京都生まれ。2003年「インディゴの夜」で第10回創元推理短編賞を受賞し、デビュー。『インディゴの夜』はシリーズ化、ドラマ化され、ベストセラーとなる。ほかにも、『モップガール』シリーズ、『アー・ユー・テディ?』シリーズ、『メゾン・ド・ポリス』シリーズなどドラマ化作多数。近著に、『渋谷スクランブルデイズ インディゴ・イヴ』、『メゾン・ド・ポリス5 退職刑事と迷宮入り事件』がある。
スピリチュアル探偵 第15回
【著者インタビュー】斎藤恭一『大学教授が、「研究だけ」していると思ったら、大間違いだ! 「不人気学科教授」奮闘記』/少子化時代、国立大の教授が自ら広報に奔走!